年間第10主日(C年)の説教=ルカ7.11~17
2016年6月5日
新しい人との出会いは、同時に、その人との別れの始まりでもあります。そして、また、新しい出会いへと発展していきます。そして、そこに自分の「成長」をも確認していくことができます。人の出会いも別れも、その在り方はさまざまです。
転勤、転校等で別れるのは、また再会できる機会があるということで期待が持てますが、死別の場合は、やはり悲しいものがあります。しかも親子の関係で、子どもに先立たれるとなおのことです。
北海道の駒ヶ岳の麓で、置き去りにされた7歳の子どもが行方不明になった事件がありました。「しつけのため」ということです。が、事が起こってからでは遅いですが、他にやり方があったのではないかと思ってしまいます。どのようなケースであれ、肉親との別れは、特に子どもにとっては、心の不安を煽り、心身に異常をきたしてしまうこともあり得ます。親御さんにとりましても心配の日々でしょう。
今日の福音では、親子の話が出てまいります。まだ若くしてそのいのちを亡くした息子とそれに涙する母親の話です。人間の悲しみに、心を閉ざしてはおれないイエスさまは、母親の姿を見てしるしを行い、むすこを母親にお渡しになります。
親は子どものために苦労し、疲れもいとわず働きます。親であればすべて、子どもの将来を夢見て子どもの人生に幸多かれと願い、労をいとわないのです。また、子どもがいるからこそ、生きる力をいただいています。エネルギーの源は子どもへの愛情とその子の将来像にあるのではないでしょうか。
ここでのイエスさまの奇跡は、人間の痛ましい姿を見て、見過ごしてはいられないイエスさまのやさしさ、あわれみの心からのものでしょう。この時の母親の心情はいかばかりだったでしょうか。その描写はありません。言うまでもないからでしょうが、その代わりではありませんが、周りの民衆の反応が記されています。
この出来事を見て、人々は神をほめたたえたとあります。イエスさまの姿を見て、神が民を訪れてくださったことを理解し、自分たちに喜びを与えてくれる存在であることに目覚めていったのでした。
今を生きているわたしたちも、日毎の日常の中にイエスさまを見つめ、イエスさまを通して神のいつくしみを感じ、生きてみたいです。
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