年間第4主日(C年)の説教=ルカ4.21~30
2013年2月3日
わたしたちにはそれぞれにふるさとがあります。「ふるさと」の内容に違いがあっても、より所とする場所、人は、誰にでもあるのではないでしょうか。
かつて、先輩によく言われたことがあります。その先輩も、以前にさらなる先輩に言われたことだったのでしょうか。「親がいなくなれば親もと(ふるさと)には帰らなくなるものだよ」と。何も好んでそうしているのではなくても、過ぎてみると帰らなくなっている自分に気づかされる今日この頃です。
ところで「ふるさと」のもつ意味はなんなのでしょうか。同じ町、同じ地域に居住するということで、自ずと仲間意識が育ち、助け合い、連帯感が旺盛になっていくということではないでしょうか。予想もしないところで、見ず知らずでも、「ふるさとが同じである」ということでとても懐かしく、親しくその人を感じた経験はないでしょうか。
同じ国のレベルになりますと、たとえば、オリンピックなどでは、「祖国愛」が騒ぎだします。これらは身につけようとしないでも身にしみついています。ごく自然な自覚であり、現象です。それが狭い範囲の世界では、血縁が加わってさらに強い絆となっていきます。安心できる温和な世界で平和な生き方を楽しむことができます。それが高じてくると、だんだんと他を受け入れない「排他性」をもった世界と化してしまうこともあり得ます。つまり、新しいものの考え方、生き方を受け入れ難くなっていくのです。
イエスさまが育ったナザレの地域も同じような雰囲気を見せてくれています。今日の福音の話がまさにそうです。ふるさと以外で有名になり、尊敬されてきたイエスさまは、ナザレ人からすれば、郷里の仲間として鼻高になってもいいくらいの有名人になっていたのです。ところが、「有名人」になった内容が、ナザレ人の価値観と合わなかったのでした。
そうです。ふるさとの人は自分たちの周囲が見えなくなってしまったのでした。イエスさまを誇りに思うどころか、排斥してしまうのです。すなはち、一般庶民の痛みに敏感であったイエスさまに、ナザレ人は共鳴しなかったのです。
現代社会において、わたしたちが教会に集まって、礼拝と感謝のミサをささげるのは、身内意識を高めるためではなく、キリストの食卓にあずかるためです。痛みを感じる人に寄り添うイエスさまを感じ、それを生きるためです。これが、信仰の「ふるさと」に戻ることになるのでしょうか、・・・。
コメント