
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
復活の主日/日中のミサ説教=ヨハネ20・1~9
2026年4月5日
世界の人口は2025年時点で約82億3,200万人です。これは国連人口基金の「世界人口白書2025」による最新の推計です。
それと同時に、宗教もそれに応じて多くの数を数えることができるのではないでしょうか。 実は世界には4,000種類以上の宗教があると言われています。ただ、そのほとんどは小規模なもので、世界の人口の8割以上は10種類ほどの主要な宗教を信仰しているんです。宗教は大きく「世界宗教」と「民族宗教」に分けられます。世界宗教とは、国や民族の枠を超えて世界中に広まった宗教のこと。キリスト教、イスラム教、仏教がこれにあたります。「世界三大宗教」とも呼ばれていますね。一方、民族宗教は特定の地域や民族の中で信仰されている宗教です。ヒンドゥー教やユダヤ教、日本の神道などが該当します。(ちょげぶろぐ)
こうしたデータを見ると、やはり、人間は自分以外の優れた誰かに、心身を託したい願望が心の奥に宿っているということができるのではないでしょうか。生きるために、それもより良い、充実した日々を願っているのです。今だって、世界が混乱してくると、日常生活に影響が及び、以前の生活を渇望します。そして、信じている神の前にぬかずきます。
一方で、わたしたちの間でよく耳にするのが「政教分離」という言葉です。
わたしが申し上げたいことは、神を信じることは、わたしたち一人ひとりの実生活に関係あるところで意味があるということです。つまり、わたしたちが信じている「キリスト教」は、その根本的な出発点は歴史的な出来事の中にあります。それゆえに、最初の使徒となった人々も、自分たちこそ、その出来事、つまり十字架と復活の証人であるという自覚に生きていたのです。自分たちの目で見、自分たちの手で触れたことがらの証人であるという意気込みが感じられます。特に、今日の福音書では、復活がこの世における事実であることを強調しています。

「マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」 (ヨハネ20.1~6)
これは人間による創作ではなく、弟子たちが見、聞き、触れた出来事であること、同時に、わたしたちの信仰はその事実の上にあり、そして、教会が立っていることを示しています。だからこそ、神のわたしたちへの愛は、現実的なのです。だからこそ、わたしたちが実践する隣人愛が、神との関係の中で意味あるものとなるのです。その逆もあり得ます。というのは、正の感情がわたしたちには喜ばしい関係ですが、その逆で負の感情を引き起こす関係もあります。それが、十字架上で死に向かうイエスの受難の道のりです。イエスの受難には到底及ぶはずもありませんが、それに似たことは、わたしたちの日常の現場でもよくある話ではないでしょうか。
でも、これらの話が歴史的な出来事であるということを受け止めるだけでは、教会も存在しなかったでしょうし、キリスト者も誕生しなかったでしょう。事実、歴史的な出来事に触れた人々は弟子たちのほかにもたくさんいたことでしょう。それらの人々がキリスト者であるとは言えません。キリスト者であるためには、この十字架と復活の出来事が、わたしの生活の中で、生きていく上において、「わたし」に意味を持ったものとして受け止められるときに、キリスト者として誕生するといえるのではないでしょうか。
ペトロはそうした体験をした典型的な人でありましょう。彼は、イエスの十字架を前にして震えおののき、逃げ去り、さらに主を裏切った男です、自分の心の醜さを十二分に味わい、それがゆえに、復活の出来事は、さらなる強烈な体験となりました。自分をやさしく包み込むゆるしの体験であり、神の愛の強さの体験でもあったはずです。
今の「わたし」にとってはどうでしょうか。この世におけるすべての人が、キリスト者としての体験を経て成長していければ、83億余の皆が、安心して平和の裡に歩を前に進めていけます。世界が混乱している「今」だからこそ、歴史の中で働かれる神に、「信仰者」として訴えましょう。
主よ、わたしたち一人ひとりに、あなたのゆるしと平和の心を豊かに与え、お互いに分かち合うことができますように、・・・!


コメント