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年間第3主日:毎日を生きる日常のあちこちで、イエスと出会い、語りたい

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年間第3主日(A年)の説教⇒2026/1/25

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第3主日(A年)の説教=マタイ4・12~23

2026年1月25日

わたしたち人間にとって、病と死を避けて生きられる人っているでしょうか。自分では病にかかるつもりはなくても、そのために食事を工夫したりして強い体を養おうとしても、いつの日か体の免疫が落ちたり、何かの外的圧力がかかってそれに抗し切れなかったりして、どうしても逃れることができなくなってしまいます。

人生を長く生きることができたとしても、それだけ心身の苦労を背負ってしまいます。他方、年を重ねればそれだけ「生きること」の難しさと楽しさ、喜びと寂しさ等を知ることも、それゆえに、生きていることの尊さ、ありがたさをも体験することができます。

できることならば、生きることの楽しさ、嬉しさ、喜びだけの中で生きることができればと思います。がしかし、そううまくいくわけがありません。むしろ、悲しみ、辛さ、苦しみが多い中で生きているような気がしてなりません。印象としては、そちらの方が体験として記憶に残りやすいのでしょうね。何せ、過去を思い起こすときに、辛かったこと、苦しかったことなどが、先に思いの中に蘇ってきませんか。

「無病息災」という言葉があります。正月を迎えると、にわかにこの言葉が年賀状とか、神社参拝の折に登場します。無病息災とは、「病気をせずに元気で健康なこと」を意味します。「無病」「息災」それぞれでも意味を持ちますが、あわせて「無病息災」として使う機会の方が多いでしょう。

無病とは
無病息災の「無病」とは、健康なことや病気をしないことを表す言葉です。語源ははっきりしていないものの、1530年(室町時代)の「清原国賢書写本荘子抄」という書物には「薬もとらずして、父の無病なるは、ましたるべし」という一節があり、古くから無病という言葉が使われていたことがうかがえます。

息災とは
無病息災に使われている「息災」には、2種類の意味があります。 
    ①仏の力であらゆる災いを防ぎ止めること
    ②病気をせず元気であることやその様子
もともとは前者の意味でしたが、意味が転じて後者の意味でも用いられるようになりました。(マイナビニュース)

いつの時代も、人が思う幸せ感は「無病息災」なんですかね。しかし、この言葉の示す中身は、何も特別なことではないように思います。ごく普通の、日常的な些細なことに対する「無病息災」のような気がしています。つまり、台風とか自然界の大きな災害だけではなく、毎日の営みの中で、ある卑近な出来事、すなわち、特別な幸せでなく、日々が滞りなく普通に過ごしていけますようにという、日常の小さな幸せで、毎日のことです。日常、元気に過ごしていけることのありがたさを、何もない時には感じなくても、何か問題が起きたときに、平穏な毎日のありがたさを感じたことはおありではないですか。そのような「幸せ」をこの「無病息災」は意味しているのではないでしょうか。当り前のことですよね。

年間第3主日:イエスはガリラヤで宣教を始め、4人の漁師を弟子にした
年間第3主日(A年)の福音=マタイ4・12~23 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。

きょうの福音書は「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」という言葉から始まっています。

この中で「…退かれた」という表現が、イエスがヘロデの手を逃れてガリラヤに退いたという印象を与えてしまいます。また、ヨハネが捕らえられたので、自分も危ないと思って、一時身を隠そうとしたのではないかという印象すらも与えてしまいます。

しかし、当時ガリラヤを統治していたのは、ヨハネを投獄した当の本人ヘロデだったのです。ですから、ナザレの田舎にいたほうがはるかに安心できることだったはずです。イエスのこの行為には、イエスの覚悟というか、ご自分の使命に対する自覚を読み取ることができます。つまり、ヨハネの逮捕は、イエスが公に活動する時が来たことを知る契機になりました。そして、ガリラヤに退かれたのでした。ヘロデの手から逃れようとしたのではなく、ご自分に託された使命への自覚を見つめることになったのです。そのガリラヤとはどのようなところかといえば、きょうの第一朗読に出てくるイザヤ書にあります。

「ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。 闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」マタイはガリラヤに移り住んだイエスこそが、「 闇の中を歩む民」にとっての大いなる光であり、「死の陰の地に住む者」に差し込んだ光であると悟ったのでした。

こうして、聖書に謳われた言葉が、わたしたちの日常の場に、現実味のある言葉として働き始めます。つまり、地上の醜さ、わたしたちの悲しさ、不幸が深まれば深まるほど、より深いあわれみがイエスの心よりあふれ出てきます。

どうやら、わたしたちの日常は、順風満帆ばかりではなさそうです。でも、それを上回るだけのイエスのかかわり、イエスのあわれみを受け取ることができます。そこで求められているのが、心の姿勢です。イエスのあわれみを受け取るための姿勢とは、「悔い改めなさい。」という言葉で表現されています。すなわち、わたしたち自身が自分の貧しさ、悲しさ、弱さをしっかり、はっきりと自覚し、神のあわれみの中にそれを委ねようとする心です。何も特別な場ではなく、日々の日常の場で実感していきたいですね。

そして、ヨハネが使った言葉と表現で、イエスは宣教を始めます。

「悔い改めなさい。天の国は近づいた」と。

 

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