
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第2主日(A年)の福音=ヨハネ1・29~34
2026年1月18日
わたしたちは日常、どれだけの人との出会いがあるのでしょうか。普段は意識したことはありませんが、しかし、過去を振り返れば、さまざまな方との出会いがありました。近所の方との出会い、懐かしい友との出会い、心ときめく人との出会い、自分にとって嫌な人との出会い、気まずい人との出会い、喜ばしい人との出会い等、さまざまな出会いが、今も繰り広げられています。
その方々との出会いを通して、自分の気持ちも、考え方も大きく影響を受けています。自分がそれを意識しているか否かにかかわらずです。それだけわたしたち人間は「群れる」ことを「否」とはしていんないんです。そうすることを拒む人は、過去において何か嫌な体験があるのではないでしょうか。
今は、新しい年が始まったばかりです。報道によりますと、いたるところで、新春の集い・無病息災を祈願して「鬼火たき集い」(志布志市)、また、「はたちの集い」を開催し、「はたちの証書」を渡し、外国人(インドネシア人5人)を含めて9人の参加者を市民約30人が祝福しました(都城市)、という催しがなされています。
「鬼火たき集い」を少しく眺めてみましょう。(南日本新聞2026年1月14日朝刊)
「志布志市松山の新橋地区コミュニティ協議会と秦野校区コミュニティ協議会は10日夜、鬼火たきを行った。立ち上がる炎に地域住民が無病息災を祈った。新橋は、鬼火たきに先立ち、本年度初めてコミュ協と学校などで栽培したもち米で餅つきのやぐらをくんで。老人福祉センターにきねとうすを準備し、約80人が参加した。松山小学校6年、草ノ瀬穂香さんは『楽しかった。自然な甘みでおいしい』と笑顔。同校の近くの田んぼであった鬼火たきで振る舞われた。
秦野では、JAそお鹿児島松山支店近くの田んぼに約12メートルのやぐらを組んで実施。みどり保育園園児の歌、秦野小6年生による夢や目標の発表後に点火、花火打ち上げもあった。6年中井陽菜さんは『迫力があった。今年は中学生になるので勉強と部活を頑張りたい』と話した。」
人が集まるところには必ず新たな「出会い」があり、新たな刺激を受けます。そして、同時に新しい何かを体験し、学びがあります。こうしたことの繰り返しが、わたしたち一人ひとりを成長させてくれます。こうして、わたしたちは一人の大人として、社会に通用する人間になっていきます。日々感じてきたことではありますが、人との「出会い」は、その人の人柄にも、大きな影響を与えていくといえます。
その最たる相手の方とは、ご両親です。子どもは、赤ちゃんの頃より両親の姿、全身を見て育ちます。その声、ことば使い、仕草等、すべてです。そして、大きくなるとその声、仕草等が親に似てくるものです。その後ろ姿まで似てくるといいますから、どうしようもないですね。自分自身後ろ姿までは見えませんので、・・。

きょうの福音書は、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちにイエスの正体をあかし、宣言するお話です。ヨハネは、イエスが世の罪をとりのぞく神の小羊として、イエスの本性を弟子たちに示します。ヨハネの弟子たちは、ヨハネによって教えられ、導かれてイエスに出会い、その後についていき、最後にはイエスの弟子になっていきます。
イエスを知ることができたのは、ヨハネに教えられた結果でした。つまり、洗礼者ヨハネに「出会う」ことがなかったなら、決して彼らはイエスに出会うことはなかったでしょう。仮にイエスを知ることがあったとしても、その時期は、かなり後になってからだったのではないでしょうか。また、ヨハネとの出会いが、もしなかったなら彼らの生き方そのものも、今とはかなり違っていたのではないでしょうか。ひょっとして、よからぬ道を歩んでいたかもしれません。
このように想像してみますと、今に生きているわたしたち一人ひとりにとって、その「出会い」の重要さが浮かびあがってきます。わたしたちは、絶えず誰かを求めています。それだけに、その命を生きながら、誰に出会うかによって、人生の幸福・不幸、喜びと悲しみ、これらが決定づけられるといっても過言ではなさそうです。
自己の視点に立っての見解を語りましたが、逆に、相手方にとって、「わたし」が彼らの喜び、恵みの「出会い」になれるような存在者になっているかどうかも、「出会い」が持つ重要な視点ではないでしょうか。このことは「福音宣教」に即つながることだと思います。恵みの出会いとなるのか、それとも、嫌な出会いとなるのかは、その時に置かれていた両者の状況にもよります。
メシアを準備するために情熱と確信に満ちた思いで洗礼を授けていた洗礼者ヨハネ。方や、救いに飢えていた弟子たちと民衆。両者は、ともに神の思いに向けた良い方向へと歩んでいました。ヨハネの弟子たちや民衆にとって、ヨハネとの出会いは、恵みだったのかどうか、・・。
洗礼者ヨハネとの「出会い」は、先ず、その弟子たちにとって、恵みとなりました。同じように、ヨハネのやっていることに目覚めた民衆が、彼についていかないということはありえないでしょう。
事実ヨハネ自身も、イエスとの出会いによって自分の過去を振り返り、その役割に新たに気づきます。つまり、自分が水で洗礼を授けていたのは、この方が現れるための準備だったのだと理解したのです。そして、イエスの受洗時の神の言葉によって、イエスは「神の子」であることを確信したのです。そして、告白したのです。
信仰の言葉と体験が一つになるとき、救い主の姿が一層はっきりとしてきます。そのことを最初に証言したのが洗礼者ヨハネでした。


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