『年間第28主日(C年)』の聖書と説教はこちら

年間第28主日:真の信仰は、「告白」することにより実る

この記事は約5分で読めます。
年間第28主日(C年)の説教⇒2025/10/12

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

年間第28主日(C年)の聖書=ルカ17・11~19

2025年10月12日

幼児が誰か他者から、かねてから欲しかったものをもらったとしても「ありがとう」という言葉が返ってくるのはごく稀です。そして、親から促されて初めてお礼の言葉を口にします。嬉しくないからではなく、逆に嬉しすぎて、それを使ってみたいとか、早く食べたいとか、そのような考えが相手の気持ちに心を向ける行為に勝ってしまうのです。感謝する心より、楽しみたい思いが優先するあまり、無礼を働いてしまうのでしょう。だけど、大人にだってそのようなことがあるのではないかと思いますが、・・。そして、思いだしたかのように「ありがとうございます」ということがあります。特に家族内においては・・・どうでしょうか。

ところで、「感謝」という言葉を日本国語大辞典で調べてみますと、 「ありがたいと感じて礼を述べること。また、ありがたいと感ずる気持。中世、近世の辞書、節用集類には見出すことはできず一般に定着したのは明治時代に入ってからと思われる。」(コトバンク)とあります。

ところが、聖書においては、ヘブライ語で「感謝」を意味する動詞は、その用例を見ますと「告白する」という使われ方を確認することができます。詩編32ノ5「わたしは自分の罪をあなたに告げ、罪咎を隠しませんでした」とか、詩編42の6「わたしは再び神をたたえることができよう。わたしの救い主、わたしの神を」と。

このように「告白する」と訳された用例では、神の救いの業の告白だけではなく、罪についての告白をも表すことが出来ます。

今度は広辞苑(第7版)の「告白」の項を見てみましょう。次のようです。

「心の中に思っていたことや隠していたことを打ち明けること」とあります。日本語の「告白」は、「心の中に思っていたことや秘密にしていたことなどを隠さないでありのまま告げること」ですから、「感謝」とは無関係といえます。とはいっても、キリスト教での用語、として説明が付記されています。「ア-自分の信仰を公に表明すること。イ-神に対し罪を認め言い表すこと。カトリック教会・正教会・聖公会で行い、プロテスタント教会でも実践するところがある。 ゆるしの秘跡。」

日本語の場合でも、神仏を「ありがたいと感じて礼を述べる(感謝する)」こともありますが、その時でも「信仰を表明し、告白する」という意味合いは含まれていないのではないでしょうか。

さらに、日本語の「告白」は、「ありのままを告げる」という行為そのものに強調点が置かれ、告白する相手のことは強調されてはいません。

年間第28主日:重い皮膚病を癒されたサマリア人は、神を賛美しながら戻って来た
年間第28主日(C年)の聖書=ルカ17・11~19 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止 まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」 と言った。

しかし、聖書における「告白」は、告白相手としての神が強く意識されています。つまり、その神は苦難からの救済だけでなく、罪からの解放も行う方です。ですから、「感謝」と「告白」とは通じており、同じ言葉で表すことが出来るというわけです。

もちろん、イエスの時代にも告白を含まない感謝(日本語での感謝)で終わることもあります。きょうの重い皮膚病から清くされた九人、イエスのもとに戻ってこなかった者、彼らはまさにそうだったのではないでしょうか。確かに心の中でお礼は述べたことでしょう。しかし、信仰の告白のためにイエスの元へと戻ることはありませんでした。

ところが、一人の人は、イエスの元へと戻ってきたのです。サマリア人だったと記されています。「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」ので、サマリア人が十人の中にいたことはうなずけます。彼は「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」のです。確かに彼は、「清くされた」以上の何かを感じたのです。それでイエスの元へ戻ってきたのです。イエスは彼に「「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」と言って、嘆かれたのでしょうか。イエスはお礼を言ってほしくてこう言われたのではないでしょう。サマリア人のふるまい方を見て感じるでしょう。彼にとってイエスの足元にひれ伏して礼を述べただけでなく、そのことが彼の信仰告白、信仰宣言になっていたのです。他の九人にも信仰告白の時を無駄にしてほしくなかったのではないでしょうか。きっとそうでした。

わたしたちの日々の生活は、いつも誰かのお世話をいただいて成り立っています。これは言われるまでもなく、当たり前すぎて普段はあまり意識していないのではないでしょうか。空気と同じですよ。空気がなくなると困ります。そうなってはじめて、空気のありがたみが分かるのと同じくらいに隣人はありがたい存在者なのです。言うまでもありませんが、日々食事に恵まれ、便利さを享受できるのも、それを提供してくれる誰かがいるからでしょう。

考えてみると、わたしたちはどこまでも自分の望みを中心にして生きている存在だなと思います。真の救いは「清くされた」だけでなく、「癒された」ことに気づくことです。奇跡はあくまでも「信仰する」ことの入り口でしかないのです。その出来事の奥に「いやす方」の指を力を見ることです。それによって自己中心から解放され、神との交わりに導かれていきます。そのことを感じ取りたいです。

思い皮膚病を患った人たちは、人との交わりから隔離されていました。他者の存在が、関わりがいかに大事なのかを知っていたのは彼らなのでしょう。他との交わりが断たれていたからこそ、交わりにあこがれたのです。

サマリア人は、「告白」することによって感謝する神との交わりに招かれ、「救い」が名実ともに実現しました。

イエスは言われました。
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

年間第28主日【10月12日】の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました