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年間第18主日:生きる軸足を「上にあるもの」に置く。その第一歩はどこに?

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年間第18主日(C年)の説教⇒2025/08/03

年間第18主日(C年)の説教⇒2025/08/03

年間第18主日(C年)の説教=ルカ12・13~21

2025年8月3日

 この世に生を受けている者は、一人ひとりみな「豊かになる」ことを望み、願っているのではないでしょうか。では、その「豊かになる」中身は一体どんなこと、その関心の的になってくるのは・・・、お金(現金)を含む資産の豊かさではないかと思ったりしていますが、・・・。

このことは、時代が変わっても大きな変化はないような気がしています。イエスの時代においても現代社会においても、日々の生活のキーワードの一つになっているのは事実でしょう。「豊かになる」ために一人ひとりが注ぐエネルギーは大きなものがあります。そして、「もの」を獲得します。そして、得たものを、きょうの福音のたとえ話の中に登場する一人の金持ちのように判断する人もあるでしょうし、また、別の方法を考える人もあるでしょう。

福音に登場した金持ちの人は、自分が置かれた状況に的確に対処することのできる人物だったのでしょう。大豊作に恵まれたとき、自分の作物をしまう場所について思案し、さらに大きな倉庫を立てて、しばらくは楽な生活を送れることを喜び、自分に語りかけます。

「金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」

ところが、きょうの第一朗読を見ますと、コへレトの言葉が朗読されます。コへレトの言葉は「なんという空しさ」で始まり、結びにも同じ言葉があらわれます。

「コヘレトは言う。 なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。・・・・・知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。」(コへレトのことば1の2、2の21~23

この朗読箇所の中で、「なんという空しさ」と訳された句は、「空しさ」の単数形と「空しさ」の複数形の組み合わせだそうです。直訳すれば「空しさらの空しさ」となります。これは「空しさの中の空しさ」といった意味であり、そこから「最高の空しさ」を表します。つまり、この文書は悲観的厭世的な主張に満ちていると言えます。

コへレトによれば、人の生涯は「痛みと悩み」に満ちており、「夜も心は休まらない」のですから「実に空しい」ことだとされます。今のわたしたちにとっても、確かにこう嘆きたくなるような時が、事があります。そのような時に、わたしたちはいかように対処しているでしょうか。その対処のあり方にも人によって様々があるでしょうと思います。

年間第18主日:自分のために富を積むより、神の前に豊かになりなさい
年間第18主日(C年)の聖書=ルカ12・13~21 〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

今日の福音に登場する金持ちの農夫は、先に述べたように、「『倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、・・・ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」と自分に言い聞かせます。ここで「しまう」と訳された動詞は「一つ所に集める」ことであって、「しまい込む」という意味になります。この金持ちは得た財産を自分のために「しまい込み蓄える」ことによって、将来に備えようとしたのでした。

これは着実な生き方だと言えますが、神が出した彼への回答は次のような宣告でした。

「神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と。

金持ちにとって何が愚かだったのでしょう。何が神のみ心に敵わない出来事だったのでしょうか。彼自身の死期の問題だったのでしょうか。これについては誰もわかりませんし、知ることは不可能です。では、イエスが言いたいことは何でしょうか。イエスは付け加えています。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と。つまり、金持ちの愚かさの根源は、「自分のために富をつむ」ことにありました。

現代に生きているわたしたちはどうでしょうか。先々のことを考え、老後の生活設計を立てている人がほとんどでしょう。立てていない人はいないのではないでしょうか。そのような人で、またその多くは、家族に面倒をかけたくないので、・・と自らの亡き後のことを心配している人たちです。中には、ゆとりある生き方を求めて、老後の楽しみ方を計画している人もないとは言えないでしょう。自らにご褒美をあげたくなりますよね。これも程度の問題でしょうか。

イエスの今日のわたしたちへのメッセージは、「上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め地上のものに心をひかれないようにしなさい」ということでしょう。と言われても、・・・と言いたくなります。人間どうしても自分を甘やかしてしまいたくなるんでしょうね。同時に自分の信仰の甘さ、足りなさを宣言していることに通じる言い訳でもありました。

わたしたちが「自分のために富を積む」という生き方に集中してしまうのは「上にあるもの」に目が向かわないからでしょう。ではどうすればいいのでしょう。生きる軸足を「上にあるもの」に置く生き方への第一歩はどこに、何に置けばいいのでしょう。

神と出会うために・・・。

 

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