『復活の主日』の聖書と説教はこちら

復活の主日:上を向く人には、イエスの復活はどんな時・場合でも希望に繋がる

この記事は約5分で読めます。
復活の主日(C年)の説教⇒2025/04/20

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

復活の主日/日中のミサ説教=ヨハネ20・1~9

2025年4月20日

主の復活おめでとうございます。

わたしたちはこの地上のことは分かります。でも、隅から隅まで、地上のことをわかっているかといえば、NO(ノー)でしょう。といいながらも、地上のものに魅了されているのは確かです。地上のものに心をひかれるかぎり、妬みや損得の利害関係が幅を利かせ、不和や争いに進まざるを得ないのが、現実の社会生活であろうと思います。

しかし、このような地上ともいつかはお別れの時がきます。人それぞれにこの世との別れのあり方は違います。どんなに警戒していても、人の力では避けることはできません。我が国において典型的な自然災害、それは地震です。ここ最近は、諸外国を含め地震で亡くなられる人、その故に、貧しさ、不便さに拍車がかかって身動きが取れない人等、その姿はさまざまです。街並みもさることながら、なんといっても人一人ひとりの心に去来する空しさ、寂しさ、受けたショックの大きさからくる心身の崩壊。それもかなりひどい崩れかたです。

「天国で幸せかな」。熊本地震から16日で9年。この地震は大分県にも及び、本震があとで、はじめよりもさらに強い揺れをもたらしてくれました。両県で計278人が犠牲となっています。その中に、鹿児島県南大隅町出身の東海大4年生で、阿蘇キャンパスに通っていた脇志朋弥(わき しほみ)さん(当時21歳)が亡くなられたのでした。志朋弥さんと小中学校の同級生だった女性二人が「天国で幸せにしているだろうか」と思いを馳せるのでした。

鹿児島市田上5丁目の公務員笹原明日香さん(30歳)は、同じ団地で育った小中学校の同級生。小学生の頃は団地の駐車場で、脇さん父子と一緒にバレーボールをしてよく遊んだとのこと。「父親とやっているのを見かけると、私も外に出ていって交ぜてもらった」と懐かしんでおられます。

南大隅町役場に勤める富尾菜乃花さん(30歳)も脇さんと小中学校まで一緒でした。「同じバレーボール部で、仲の良い友達というよりはライバル。お互い負けたくない気持ちで競い合ってけんかもしたといいます。大人になった今だったら仲良く楽しいバレーができたのかな」と思うことがあるそうです。

復活の主日/イースター:マグダラのマリアは墓から石が取りのけてあるのを見た
復活の主日の福音=ヨハネ20・1~9 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。

きょうは復活の主日。神はわたしたちに何を呼びかけておられるのでしょうか。その中で、主なメッセージは、第二朗読の中にあるような気がします。この世を支配する霊に従う教えや生活に惑わされやすいわたしたち。コロサイの信徒への勧めも、わたしたちと同じ環境にあるがゆえに、パウロは警鐘を鳴らし続けてきました。それが「キリストと共に」生きることを強く勧めているのです。復活したイエスに注目させています。

「〔みなさん、〕あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3・1~4)

なんといっても、「上にあるもの」が強調されています。キリスト者の視線は、上方へと向けられるべきであり、「地上のものに心ひかれないように」すべきだからです。キリストを信じる者は地上にありながら、「地上のもの」には目もくれず、ひたすら「上にあるもの」を見つめながら生きています。なぜならば、そこにキリストがおられるからです。父の右の座についておられるのです。

そのイエスは、この地上では、苦しみの果てに十字架の上で息絶えました。その体は鞭によって引き裂かれ、見る人がその顔をそむけたくなるほどのむごい、悲惨な姿でした。イザヤは次のように記しています。

「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章2~5節)

十字架上で息絶えたイエス。墓を尋ねた婦人たちに、新しい掲示が示されます。それは、主イエスの遺体がみつっからなかったのです。そこに天使が現れました。

「 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」(ルカ24章5~8節)

すなわち、イエスの死は、死ではないということが啓示されました。これが復活の信仰です。そして、絶望におおわれた心を希望に駆り立て、悲しみにつつまれた心に喜びを与えるのがキリストの復活です。

「天国ではもっと幸せに過ごしていますよ」

復活の主日【4月20日】の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました