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四旬節第1主日:わたしたち人間の人生は、みな神に向けられたものです

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四旬節第1主日(C年)の説教⇒2025/03/09

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

四旬節第1主日(C年)の説教=ルカ4・1~13

2025年3月9日

わたしたち人間の社会では、ものごとが新たに始まると、そのものの終焉が必ずやってきます。例えば、新築した建造物はいつの間にか利用消耗し、老朽化して立っているのがやっとという状況になります。その他便利な機材等、時の流れとともに社会のニーズが変遷し高度化してきますと、その機材が持つ能力と符合しないことになってお役目御免となります。

報道内容を見て、懐かしくなる名前の国民宿舎閉館のニュースでした。それは日置市の国民宿舎「吹上砂浜荘」が54年余りの営業を終え、事実上、閉館したとのことです。かつて、青年たちと利用したことがありました。その内容についてはあまり覚えてはいないのですが、・・。でも、その役割を果たしたことは確かでしょう。

その最後を飾ってくれたのが立命館大学(京都市)の硬式野球部の部員約70名のみなさんでした。2週間合宿したそうです。一年生の神野吏輝(りき)さん(18歳)は「初めてきたが、温泉がよかった。閉館と聞いてびっくりした」と語っています。閉館セレモニーの席で、永山由高市長からねぎらいの言葉を受けた寺脇さん、22年にわたって責任者務めあげた足跡を振り返り語ってくれました。「住民や利用した方々に砂丘荘を長年育ててもらい感謝しかない」と。

吹上砂丘荘は1970年12月にオープンし、食堂や温泉を完備。ところが赤字経営が続き、新型コロナ禍前の2019年度は約3万人だった利用者が20,21年度は約1万1千人に減少。本年度は約7千人だったとのこと。維持を断念した理由は、従業員確保の難しさ、建物の老朽化に伴う約4億円の改修費調達の困難さが挙げられます。そして日置市は、2025年3月に閉館を発表したということです。

吹上砂丘荘は、その任務を果たしたとされたのでしょう。運営側としては、社会的なニーズの面からも、その存在価値の評価を探ってみたこととでしょう。立地環境もその存続を考える時に大きな影響力となります。吹上砂丘荘は国民宿舎として用を足せなくなると、人々からも見向かれなくなります。そして、終わりを迎ええるのです。

建物ですから全体を解体するか、少々の修復を施した後に、別利用を考えるかの選択があり得ます。いずれにせよ、「国民宿舎」としての役割は終りました。固い言い方をしますと、国民に向けた「宿舎」としての役割でした。

四旬節第1主日:イエスは荒れ野で四十日間、悪魔から誘惑を受けられた
四旬節第1主日(C年)の聖書=ルカ4・1~13 〔そのとき、〕 イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を″霊″によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。

わたしたちも、生を受けているからには、一人ひとりは託された使命、役割を持っているのです。とはいうものの、その原点には皆に共通するエネルギーが横たわっています。それは、「生きていたい、さらには、生きている限り少しでも幸せでありたい」との二つの思いです。ところが、きびしい社会の現実の中で生きていき、食べ、そして、はたと困ってしまった、となった時には、自分の周りには助け舟を出してくれる人が見当たりません。置き去りにされてしまうのです。優しく援助の手を差しのべてくれる人など皆無です、と言っても過言ではないでしょう。

さらに、わたしたちの人生が、自然からも他者からも見放されたかのような生き方に見えるのは、神がアダムに仰せになった現実が、今もなおわたしたちの現実なのだということです

「神はアダムに向かって言われた。
『お前は女の声に従い
 取って食べるなと命じた木から食べた。
 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
 お前に対して
 土は茨とあざみを生えいでさせる
 野の草を食べようとするお前に。
 お前は顔に汗を流してパンを得る
 土に返るときまで。
 お前がそこから取られた土に。
 塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3章17~19節)

だからといって、生きるために何の努力もしなくてよいということではないのです。生活のために一生懸命働きながら、わが人生はパン(食べる)のためだけではないという自覚のもと、生きていくことが大事であるとイエスは勧めます。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6章31~33節)

イエスの勧めによると、わたしたち人間の人生は、みな神に向けられたものであるということです。

四旬節の始まりです。暗い沈んだ気持ちになりがちなわたしたちですが、その一人ひとりのいのちは、神に向けて生きているのです。わずらわしいこと、心配事等は現実的にたくさんあります。でも、それらもその実、無駄ではないのです。何か事が起きて普通の状態が普通でなくなった時、なんと不便を、そして、不安を感じて心細くなっていくことか。日頃わたしたち一人ひとりが体験していることです。

一日一日をもっと効果的に生き抜くために、すべてが神に向けられた一日一日であることを思い、意識し、確信できるように恵みを願いましょう。

弱いわたしの信仰を太く、強くしてください。そして、安心できる日々を豊かな心で生き、神に向けて今日も発進します。

 

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