三位一体(A年)の説教=ヨハネ3・16~18
2023年6月4日
最近では、日本の国も安心できる国ではなくなってきたのかな、と思わせるような事件事故が、次から次へと起きてきているような気がしてなりません。しかもそれが人の命にかかわることが多すぎるのです。いわゆる殺人事件です。
助け合い、譲り合いの心が薄れていく中で
「弱者を守る」という時、具体的にはどんなことを意味しているのでしょうか。人によって、そのとらえ方は様々であろうと思いますが、ごく大雑把に考えまして、弱者とは「子・女子・お年寄り」を指すよう感じがしています。「社会的弱者」となるとまた違ってくるのでしょう。それだけ複雑な時代になってきているんですね、人間関係が。また、それを誘導している何かを強く感じます。
どちらかといえば、わたしたちは、無意識のうちに、当たり前のことでしょうが、それまで付き合ってきたその人についての印象をもとに、行動してしまいます。「そんなむごいことをする人には見えません」とか「こんなに優しいところのある人だったんですよ」とか、事件が起きてからその人の印象が、感触が表明されます。
最近では長野県中野市の「立てこもり事件」があります。(南日本新聞2023年5月27日朝刊)知人らは人柄を「おとなしい」と口をそろえて言われます。また、中学の卒業文集では「この世の中で最も大切のものは『命』だと思います」とつづっています。その彼が、このような悲惨な事件を起こすなんて、と思ってしまいますが、何が彼をしてそうさせてしまったのか、・・。最近では、彼は引きこもりがちではあったといいます。また、付近の住民は「顔を合わせても、あいさつを交わすことはなかった」とも。
わたしたちが、ある限られた環境・地域で、他者と日常生活を共有している限り、助け合い譲り合いの心は大事になってきます。これがまた、共に生活している当然の「人の生き方」ではないでしょうか。こうして、そのような「心」が育っていくんだと思います。その結果生まれてくる当然の帰結としての実り、それが「人となり」というものになっていくのでしょう。
そこから、一人ひとりにとってもその役割、できることが自ずと見えてきます。こうして共同体が構成されていくんですね。すると、自然にそれぞれのやるべきこと、できることが見え、わかってきます。その最たる共同体が家族です。
神は自らその神秘を開示「恵み豊かで…」
今日は三位一体の主日です。福音では、神自らご自分の神秘を開示なさっているのです。「恵み豊かで、あわれみ深く怒るにおそく、いつくしみとまことにみちた方」であることを。それを、独り子であるイエスを通して世を愛し、救いを実現する神の思いとして明らかにしています。しかも、これは神のほうからお示しいただかないと、わたしたちにはわかりえない神の姿であります。今日の第一朗読にある通りです。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジプト34章6~7節)
これは、シナイ山頂で、モーセに宣言された主自らの言葉です。しかも、山のふもとでは、民衆は金の子牛を作っています。これはエジプトから民を解放してくれた神への背信行為です。裏切り行為であり、彼らは裏切り者です。それにもかかわらず、神は怒りをしずめ、限りないやさしさを示されました。
この時のモーセの立場に立ってみれば、主のこの言葉がいかに驚くべき内容であったか、民衆の動き(偶像の金の子牛を作製した)とのはざまに立たされて、戸惑い、または、感動すら覚えたのではないでしょうか。モーセはこの時、神に叱られても仕方がないという境地に立っていたかのかもしれないのです。まさに、人間に対する神の愛の深さを伝える宣言でした。
こうした神の底知れない愛が原動力となって、三位の神がわたしたちに示されました。この神の愛の心が、「独り子イエス」の派遣を促したのです。それは、神の最たるやさしさ、愛のしるしでありました。
神の心は、わたしたちが繰り返し繰り返し罪を犯しても、また、神を裏切り、醜くなっていこうとも、神からの愛はとどまるところがありません。なんといっても、シナイ山で、神ご自身から、人間に対する深い神の愛が宣言されているのです。
事実、この世は罪にまみれています。「世」とは、罪ゆえに神から離れ、本来あるべき姿からはるかに遠ざかっている人間の現実の姿のことです。何かにつけて神から離反している人間ですが、だからといって、神のいつくしみ、救いから除かれているのではないのです。むしろ離反しているからこそ、神の愛の対象となっているのです。これが「独り子」までも派遣されるほどに、ご自分を「与えつくされた」神の姿なのです。それは「世を裁くため」ではなく、世を「救うため」です。
神の働きかけに対してとるべき態度とは
こうした神からのわたしたち人間への働きかけに対して、わたしたち人間自身のとるべき姿が何かといえば、「信じる」ことです、と示されています。そうすれば、将来を待つまでもなく、今「裁かれない」状態にあるというのです。「裁き」は将来起こることではなく、今ここで起こっているのです。したがって、信じなければもうすでに裁かれているのです。それは「滅び」です。滅びとは神の慈しみに背を向けること、神を信じないことであり、それがすでに「裁き」になっているとイエスは言われます。
一方、神が世に与えた御子の歩みの中に、永遠の命を与える神の愛がはっきりと見えている人は、その思いと行いが癒され、神にふさわしく振る舞う者へと変えられていきます。神は「独り子」を通して、その深い人間への愛をお示めしになられたからです。
「善い牧者」の門を潜って前に進みましょう。
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