受難の主日/枝の主日(A年)の福音=マタイ27・11~54
2023年4月2日
今日から聖週間に入りました。この期間の典礼は、イエスの受難・死・復活に集中しています。そして今日は、その福音書にマタイによる受難の記述の朗読がなされます。
マタイはイエスの苦しみを焦点に記述
マタイ固有の受難物語となっています。というのは、イエスの「苦しみ」の姿に焦点を当てて記しているようです。そして、その原因となっている、イエスを追い詰めている人々の悪意を記述することに、その内容が絞られている印象を受けます。
12使徒のひとりユダの裏切り
その最たる人が誰かといえば、12使徒のひとりユダです。イエス受難のきっかけを作ったユダは、自身で祭司長たちのもとへ赴き、イエスを渡すための報酬について交渉しています。それまで個人としても幾多の助けと指導をいただいたイエスを裏切ろうとする魂胆です。(マタイ26章14~16節)その後、イエスに対する判決を耳にすると後悔し、銀貨を返しに行くんですが、そのユダに向かって言われた祭司長や長老たちの言葉は「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と、突き放されてしまったのです。その後、ユダは銀貨を聖所に投げ捨て自ら首をくくって死んだのでした。(マタイ27章3~5節)
ペトロは皆の前でイエスを否定
ペトロも、マタイでは、みなの前でイエスを拒み、否定しています。ペトロの中には、いまのわたしたち一人ひとりを振りかえればわかるように、生存本能に駆られて身近な人をさえも裏切ってしまう人間の弱さ、もろさが垣間見えます。
祭司長や長老、ピラトと群衆も
また、祭司長や長老たちの腹黒さも、なんとも冷ややかです。銀貨を返しに来たユダに、関係ないと突き放し、一方では群衆を扇動してイエスを十字架に追いやってしまいます。(マタイ27章20節)いってみれば、自らの権力と秩序の維持のためにはどんなあくどいことをしてもかまわないという人間の醜さを感じてしまいます。今の「わたし」自分はどうでしょうか。
こうした醜さの「代表」ともいえそうな人がいます。ピラトです。今日の福音の場では、民衆の騒動を避けるために、ピラトは、無力なものを犠牲にすることもいとわない政治感覚がむき出しになっています。その上、ピラトの政治感覚に抵抗することなく操られている民衆が加わってきます。
こうして、マタイ福音書では、人間の醜い欲望やエゴイズムが、イエスを傷つけ、痛めつけ、十字架上で抹殺されていく姿が浮かび上がってきます。イエスは、これらすべての人間の醜い欲望、罪を背負っていかれるのです。精神的に、多方面にわたります。
マスク着用が体質に合わない少年の話から
人によってその見方は変わってくると思いますが、ここで取り上げてみたい出来事があります。親の、他者のお世話をいただかないと行動できなかった子どものことです。鹿児島県屋久島町の中学1年生男子(13歳)に起きた話です。実際に、彼は心身の双方にわたって受難を強いられました。「学校に行きたくない」と言い出したのは、入学して間もない2022年4月末のことでした。食欲不振が続き酸欠のような状態で倒れることがありました。母親は「新しい環境に慣れないためと思っていた」のですが、病院で診察してもらった結果、体質的にマスク着用が難しかったのだということでした。(南日本新聞2023年3月28日朝刊)
小学校時代は、マスク着用は勧められたものの、「厳しく言われなかった」ので、6年間は一回も休まず登校できていました。状況が変わったのは、町内で感染が拡大した2022年2月以降。中学校ではマスク着用を強いる声が高まってきたのです。友達からも注意されてしまうほどに。学校としては、基礎疾患を持った生徒もいるということでマスクなしの登校が認められず、結局は不登校の状態になっていきました。
その後は、話し合いの末、マスクなしの登校が認められ、学校に戻ることができました。ご両親は願っています。学校は子どもすべてが安心して過ごせる場所であってほしい、と。誰もが、そして、なによりも本人がそう思っていることでしょう。
規則を重視して、人間を軽視していないか
わたしたちは、「人」よりも「きまり・規則」のほうを重視する傾向にないでしょうか。ルールに則っているのかどうか、最後の決め手はこれに尽きるという考えで日頃から生活しているような気がします。その人の置かれた環境にも影響されますが、そうしたほうが簡単に問題の処理がしやすいからでしょう。
そうすることで傷つき倒れてしまう人がいるのです。中学校一年生の彼は、まさにその一人といえるでしょう。事が大きくなれば問題になりますが、小さいままだと不問に終わります。現実は、後者のほうが圧倒的に多いのではないかと危惧します。だからこそ、それだけに受けた心身の傷は大きいのです。
イエスの十字架上の死は、まさに人間の醜さ、人(イエス)を大事にせずに死に追いやった当時の指導者階級の人たちの思惑の結果でした。親しい弟子たちに裏切られ、人々に傷つけられ、見捨てられ、究極の苦しみへと追いやられたイエス。昔からの言い伝え、きまりを大事にするあまり、本物を見失っていくことはよくある日常的なことでしょうが、それも、その「もの」の重要度、必要度等によります。
今のわたしたちは、無実の方の苦しみがあったからこそあります。わたしたちの救いはイエスの苦しみによって与えられたのです。わたしたちの今の恵まれた日々が与えられている背後には、イエスの十字架の苦しみの事実があったということです。
そこで、今一度はっきりと見つめてみましょう。
イエスが苦しみの道を通らなければならなかったのは、どうしてですか?
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