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待降節第2主日:救い主を待つことが今の生き方にどんな影響を与えるのか

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待降節第2主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

待降節第2主日(A年)の福音=マタイ3・1~12

2022年12月4日

他者のために課題を追い続ける人は輝いて

わたしたちはどうしても利己的になりがちであり、自分の思い、それに則った行動が優先されていきます。よほどの意識をもって、自己制御力が働かない限り、その傾向は誰にでもあるごく自然の人間の姿なのではないかと思います。

ところが、何かに、目的あって打ち込んでいると、そのことのために己を投げ出して心身ともに没頭できる能力を持ち合わせているのも、これまた人間です。この時の方が、人は輝いて見えます。本来、わたしたちの命は他者のために奉仕し、生かすためにいただいているものだからです。本来の姿を取り戻しているといえます。それによって、人はもっと輝き、生き生きと成長し、充実した仕事ぶりを身につけ、成熟した人間として重厚さを身に帯びていきます。

多様性ある制服の導入を目指す中学校の動き

「多様性ある制服探る」を大事にして、制服のあり方を検討している中学生がその成果を上げるべく、じっくりと取り組んでいる学校があります。(南日本新聞2022年11月28日朝刊)

多様性を尊重した制服の導入を目指し、去る10月に私服でも登校できる「鴨池TPOの日」を実践した鹿児島市の鴨池中学校です。同校は11月22日、同様の取り組みを昨年度から続ける大分大学附属中(大分市)とオンラインで意見交換会をしました。制服のあり方を巡って生徒同士が真剣に語り合ったのでした。

その中身は、「全生徒が当事者意識を持って取り組むには」「制服を変える中で見直すべき校則はあるか」などがテーマとなり、両校の生徒が意見を出し合ったということです。こうした意見の交換会などを踏まえて、さらに制服の見直しを前に進めていくといいます。意見交換会、「TPOの日」の頻度や制服の見直しを進める中で、確実に生徒に変化が表れているように感じます。

様々な立場に立って考えることを学んだ

校則検討委員会の3年・肥後寅馬琉(とらまる)さんは言っています。「様々な立場に立って物事を考えなければ、多様性は認められないことを学んだ」と。また、桑田明日香さんは「大分の取り組みを参考に、よりよい校則や制服のあり方を全員で見つけていくべきだ」と話しています。因みに、大分大学附属中学校が直面している今の問題は「私服でもいい特別感からイベント化してきている」と目的や意義の再確認の必要性が出てきていることです。これは、人間が陥りやすい傾向ですよね。

待降節第2主日:洗礼者ヨハネは荒れ野で宣べ伝えた。「悔い改めよ。天の国は近づいた」
待降節第2主日(A年)の福音=マタイ3・1~12 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

一つの課題を幾多の角度から眺め、徐々にではあっても確実に前に進んだ体験をしていくことを通して、それに関わっている一人ひとりは必ず成長し、確実な信念のもと、その課題に取り組み、解決へと向かっていることを教えてくれます。つまり、一つのことに真剣に取り組むことによって、人は確実に知恵がつき、その人自身が高められているということです。さらに、もっと幅広い人間となり、強固な一人ひとりになっていくことを示しています。

イスラエル民族の”救い主信仰”は口伝えの力

今日の福音は、「救い主が来られる」というメッセージが伝えられています。これは旧約聖書に一貫して流れる確信であり、イスラエルの人々の信仰です。そして、イエスラエルの人々の心をいつも支えてきたものであったのです。

どのようにして、ゆるぎない信仰となっていったのでしょうか。その歴史は遠く時代を遡ります。しかも、多くの預言者たちがくりかえし「救い主」が来られるということを叫び続けてきたのです。しかし、その度に裏切られてきたのです。外国からの侵入者、ついには神殿までもが壊され、人々はますます悲しみの闇に落とし込められていきます。

にもかかわらず、イエスラエルの人々にとっては、いつか自分たちの悲しみ、辛さが取り去られる日が来る、というよろこびの期待の方が強かったのです。それは、口伝えの力でした。幾度となく「救い主が来る」という期待は裏切られても、その希望は次の世代へと引き継がれていったのです。絶望的になることもなく、ゆるぎない希望を養っていったのでした。それが長く、しかも強固な信仰へと発展、成長していったのです。

最後の預言者・洗礼者ヨハネの登場で…

さらに絶対的な根拠を言うならば、苦しみ、悲しみのドン底にあっても、そこで働かれる神のわたしたちへの愛を感じ取っていたのです。それは、神のたしかさです。つまり、絶対に約束を違えることはないぞ、という神の「たしかさ」です。

神のたしかさ「救い主が来る」という預言をし続けた最後の預言者として洗礼者ヨハネが登場します。イスラエルの人々が長い間、先祖から受け継ぎ、育んできた強い厚い信仰が、ついに日の出を見るときが来たのです。ヨハネはそのために最後のメッセージ「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫びます。そして、悔い改めのもっと具体的な表明として、ヨハネのもとに集まった人々は、罪を悔いる洗礼を受けたのです。神に背を向けて生きてきた人間と神との間に生じた「ズレ」、これが罪です。

「待つ」ことでたくさんのことが黙想できる

制服のよりよきあり方を真剣に考えている中学生。彼らもまた、大きな期待をもって、共に考える仲間の輪を広げ、大きくしていく中で、たどり着く目標に当たる時が来るでしょう。この運動を止めない動きそのものが、希望のうちに、この運動の意義を深め、辛さを乗り越えていく力ともなっています。それは、後に続く後輩たちの学校生活を楽しくする備えにもなっていくのです。

「救い主が来る」ということが、「わたし」の今の生き方にどんな影響がありますか。そのことを、今日の福音のみことばから、イスラエルの人々の「待つ姿」の中に見出してみましょう。

はたして「待つ」とは、生きる、わきまえる、運動、意義、継続、仲間、希望、備え、たくさんの黙想の鍵となる言葉が思い出されますが、・・。「わたし」は今どこにいる?

 

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