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聖母の被昇天:神の登場は、日々の「わたし」の身辺に起きている

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聖母の被昇天の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

聖母の被昇天の説教=ルカ1・39~56

2021年8月15日

オリンピック2020、原爆記念式典を巡って

第32回夏季オリンピック東京大会が閉会しました。17日間にわたる日程に幕が下りたのです。また、新型コロナウイルスの影響で緊急事態宣言下での開催となり、最初から最後まで、本来あるはずの臨場感も、観客とアスリートの一体感もない、スポーツの祭典としてはきわめて不自然な大会となってしまったのではないでしょうか。

こうした状況の中で迎えたもう一つの、これは、わたしたちにとっては忘れてはいけないであろう記念日がありました。広島、長崎への原爆投下から76年を迎えたことです。広島は6日、長崎は9日、松井一美広島市長と田上富久長崎市長は、そろって同じことを平和宣言の中で日本政府に求めています。

それは、今年1月発効の核兵器禁止条約の署名・批准を迫ったのです。が、菅義偉首相は式典あいさつで「唯一の戦争被爆国」として核廃絶を目指すとしましたが、記者会見では「条約に署名する考えはない」と改めて明言しております。中でも田上市長は、2021年1月発効の核兵器禁止条約を「世界の共通ルールに」と訴えています。(南日本新聞20221年8月10朝刊)

また、この度のオリンピックは、さまざまな意見、考えが交錯する中、あれよあれよという間に開会式を迎えてしまったという感じがします。新型コロナウイルスによるパンデミック状況下で開催したスポーツの祭典。この世界的大イベントそのもののあり方に、多くの方が疑義を挟み、一考する機会となったことは否定できない現実となったのではないでしょうか。

東京五輪は不実に満ちた大会という声も

作家・高村薫さんの記事が、新聞に掲載されています。(南日本新聞2021年8月10日朝刊) この度のオリンピックの「閉幕に思う」と題して記されています。

その初めの個所に記されているのが、「スポーツの祭典としてはきわめて不自然な大会となってしまった」との評価です。また、開催国の国民として、これほど心の躍らないオリンピックはなかったといってもよいとまで言われます。しかし、わたしたちの間でも、多くの方が同じような心情を味わっていたのではないかと察します。そして高村氏は言い切ります。「仮にパンデミックさえなければ、東京オリンピックは国民全体の関心事でありえたのだろうか。答えはおそらくノーである。オリンピックはいまや数あるスポーツイベントの一つでしかない。比較的オリンピックへの関心が高い日本でも、あるのは経済効果への期待とお祭り気分だけで、その程度だから、感染症の蔓延などの事由によって社会の受け止め方はいくらでも変わりうる」と。

最後に次のように結びます。「東京2020は、多くの不実に満ちた大会だった。慣習どおり招致のために多額の賄賂が交わされたとされる不実。コンパクトな大会を謳いながら、その公約を真摯に完遂する意思を持たなかった不実。そして、コロナ禍にあえぐ国民の切実な不安を顧みなかった政治の不実。かくして私たち日本人は、時代に即してオリンピックのあり方を見直す千載一遇の機会を、ドブに捨てたのである」。

人が作り上げた基準に絶対的なものはない

人の世界で物事の評価に関して、これといった「絶対的な基準」はあり得ないでしょう。いつも歴史の流れの中で、つまり、人が作り上げていく評価の基準が変遷していくからです。ある時には個人的な利害関係が評価の基になったり、財政的な状況の如何によって評価の基準が変えられたりと、極端になると、一権力者の恣意に依存しているものだってありうるのではないでしょうか。

したがって、人が作り上げた基準に絶対的な安心、安全を見出すこと、託すことは不可能です。でも、いつも、より良いものを求めていこうとする企画力、行動力も、人間だからこそできることでもあるのです。このように人の世界は、いつも「~より良い」事態、ものを期待して前に進みます。そして、周りの人はその生き方に影響を受けていきます。

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今日は聖母被昇天の祝日です。

身分の低い、この主のはしためにも目を…

今日の福音の「マグニフィカット」と呼ばれるマリアの賛歌は、マリアの個人的な「主のはしため」としての体験です。それが人類に共通な普遍的な体験になっていることに注目すべきでしょう。

「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。・・・・・ その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

救い主である神と「わたし(マリア)」の関係に始まり、神の憐れみは、代々に限りなくとこしえに全人類に及ぶのです。すべての人が生かされるのです。そのための神の救いの計画が、ついに頂点に達し、マリアは神からのお告げを受け、そして、メシアの到来を準備させる男の子(ヨハネ)をみごもっているエリザベトを訪ねます。

そして、マリアの賛歌が歌われます。これは、圧迫されている者にむけられる神の「憐れみ」を主題としています。その中身は、一種の「革命」のように聞こえますが、政権交代のそれとは違います。つまり、「権力者を引き下ろしたその座に身分の低い人を代わりに座らせた」とは歌われていません。神が登場することによって、今まで低いとされていた者が高いと見られるようになります。人間の目には高いとされる者の横を通り過ぎて、低いとされている者、取るに足らないとされている者のところへやってきたのです。

常識的な見方が根底から変えらていく世界

このように、今まで、人の常識とされてきた見方が、根底から変えられていく世界をマリアは歌っています。

この世では相対的な価値基準が基本です。だから、絶えず失敗が続きます。でも、人には神を希求する力も与えられています。それに気づきたいですね。そのきっかけは、日頃の身近な自分の周りにばらまかれています。起きています。

核兵器禁止条約の署名・批准であったり、オリンピックのあり方を見直す千載一遇の機会であったりするのではないでしょうか。その中に何を見ますか、・・・。

 

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