年間第14主日(A年)の説教=マタイ11.25~30
2014年7月6日
最近はあまり聞かなくなったような気がしますが、「マンネリ化」なる言葉は生きているのでしょうか。辞書で調べてみますと、「一定のやり方が繰り返されるだけで、新鮮味がないこと」という説明が載っていました。
同じような日々の繰り返しだと、新鮮なものに出会うこともないし、それだけに、真新しいものを感じる感覚が鈍ってくるのでしょうか。また、挑戦心も衰えてきます。同時に、感動することもなくなるでしょう。本当は、その繰り返しの中に、感動する出来事、要素が隠されているのではないかと思うのですが、・・・。
「労苦する者、重荷を負う者は、みなわたしのもとにくるがよい。わたしはあなたたちを休ませよう。わたしは心の柔和、謙遜な者であるから」(28節)というイエスさまのことばは、さらりと読み流していないでしょうか。
よく、じっくりと見ますと、「みなわたしのもとに来い」ということに条件はつけられてありません。わたしたちの間で、このような言葉を口にして、他者に発した人がいるとしても、どこか限界を抱え込んでいます。やはり、条件が付きまとうのです。
先のFIFAワールドカップ・ブラジル大会で予選敗退を喫したザック日本。イタリア人のザッケローニ監督が、「すべてはわたしの責任」として、代表監督を退任いたしました。「わたしに任せなさい」といって、日本人のすばやさを生かした「攻撃型サッカー」を目指して、この4年間を引っ張ってきたのではないでしょうか。
選手たちも同じ心で、ひたすら前に進んできたのでしょう。といっても、所詮人間がするわけですから、「完璧」はあり得ません。「人間的」な引き際です。
それと比べてはいけないかもしれませんが、イエスさまは、なんと「重荷を負う者は、みな、・・休ませよう」といわれるのです。自信たっぷりの招きのことばです。人の生きる時々にかかわり、わたしたちの一挙手一投足をすべて引き受けようとされるのです。
わたしたちも、愛する人のためには、その人の苦労を引き受けていこうとする生き方を、自ずとしています。だからといって、辛さ、不幸感はないのです。しかし、それは、ある限界の中では完璧です。それが人にできる精一杯のこころのありようです。みなさんも経験していることでしょうが、自己の体調を崩したりしていると、そうそううまくいきません。また、自分の労苦で一杯ということもあるでしょう。
これら人のすべての状況を分かったうえで、「・・・魂は安らぎを見出すであろう」と最大の招きをしてくださいます。わたしたちは、一人ひとりがイエスさまの愛の対象とされ、重荷、労苦を解決する力を、イエスさまは持っているということへの招きでしょう。
何気なく読んでいるみ言葉こそ、じっくりと黙想してみる価値があるようです。今の時代においても、イエスさまは人びとの希望であり続けます。
コメント