復活節第4主日(A年)の説教=ヨハネ10.1~10
2014年5月11日
それこそ何十年か前の録音テープを聞いておりました。そうしますと、若い頃のわたしの声が聞こえてきました。でも、自分の声だとは全く分かりません。人にいわれて初めてそうだな、とわかる程度です。みなさんもこのような経験はあおりでしょう。自分の声だからこそ、聞き分けることができなかったのです。しかも、機械から出る声、音です。わからなくても不思議ではないという気がします。
一方で、泣き声でわが子の声であるとわかるお母さんがいます。ある日、お母さんだけの会をしておりました。突然、ある園児が泣き出したのです。「あぁ、自分の子だ」といって、部屋を飛び出したのです。幼稚園内ですから、そこまでしなくてもいいのですが、と思ったのですが、気になって飛び出したのでしょう。
この場合、これまで親子が歩み続けてきた交わりの深さ、絆の強さ、親しさを感じさせます。それも、わざわざ積み上げてきたのではなく、ごく普段の生活の積み重ねのごく自然な実りです。それは、ことばのやりとりに表れてきます。子どもの泣き声は、お母さんにとっては重大な子どもからのメッセージなのです。
しばしば、「なぜ、そんなことのために、一生懸命になれるの?」という質問を受けたり、耳にしたりしませんか。第三者から見れば、「そんなこと」なのかもしれませんが、当人にしますと、そうなってしまう自分に気付きすらしないのではないでしょうか。「一生懸命」とはそのようなことでしょう。
例えば、イエスさまとマリアの出会いの実りは「マリア」「ラボニ」という応答の中にすべてが包含されています。つまり、マリアはイエスさまの呼びかけを「聞き分ける」ことができたのでした。そして、信じて最期まで従っていったのでした。
今日の福音の中でイエスさまが訴えたいことは、どんなことがあっても、マリアとのかかわりのような関係を、わたしたちと持ちたいということです。自分が苦しい時に訴えるのは、祈るのは、そこから抜け出したい、身軽になりたい願いがあるからです。
だって、イエスさまは、そうした願いを次から次へと叶えてくれる方だからです。でも、自分の思い通りにならなかったとしても、普段の生き方を続けることです、といわれます。
そんな平凡な毎日の中に、小さくても、素晴らしく嬉しい「声」を聞き分けられる時がきます。それは、まさに、イエスさまが「よき羊飼い」だからです。必ずや、栄養満点の大地に案内してくれることでしょう。
「音」は絶えず出ています。それが「声」として聞き分けられる時を、普通に生きながら、小さな積み重ねを大事に待ちましょう。
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