『年間第33主日』の聖書と説教はこちら

年間第33主日:そのとき、人の子は選ばれた人たちを四方から集める

この記事は約3分で読めます。
年間第33主日(B年)の聖書

年間第33主日(B年)の聖書

年間第33主日(B年)の聖書=マルコ13・24~32

2024年11月17日

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕
13・24「それらの日には、このような苦難の後、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、

25星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。

26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。

29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。

30はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。

31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

32「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

 聖書本文は 日本聖書協会の「新共同訳聖書」から引用しています。
日曜日の聖書は、日曜日の説教とともに毎週木曜日の夕方に更新されます。
カトリック教会では日曜日のことを主日(しゅじつ)と言います。

日曜日の説教もどうぞ!
日曜日(主日)の聖書に続いて、YASUさんの説教(メッセージ)はいかがでしょうか!
YASUさんはカトリックの神父さんです。

2024年11月17日の説教

年間第33主日:そのとき、選り分けられて「あなたがた」と呼ばれるために
「人々」から「あなたがた」を分けるものは、はたして何なのでしょう。わたしたちは、一人ひとり、それに答えることができているからこそ、今があるのです。  終わりに、人の子から「あなたがた」と呼ばれるために、・・。

2021年11月14日の説教

年間第33主日:「その時」の唯一の救いの道⇒謙虚に満ちた神への信頼
わたしたちに求められているのは何でしょうか?それは、神のあわれみに対する「謙虚な信頼の心」を豊かにすることです。イエスはわたしたちをお招きになっているのですから、「その時」になって、思いを翻すはずはないのです。

2018年11月18日の説教

年間第33主日:救いへの道は今日が大事!神にすがって謙虚に生きよう
一人ひとり、自分が置かれている立場を理解し、受け止め、「謙虚に」生きるように目覚めなさい、とイエスさまは勧めます。自分の立ち位置をしっかりと受け止め、謙虚に神のあわれみに信頼する生き様を貫いてみましょう。

2015年11月15日の説教

年間第33主日:救われる道は神のあわれみへの謙虚な信頼、信仰
神の恵みの広さ、やさしさの深さ、人への愛の心は永遠に変わることがありません。「いと小さき者の一人でさえも滅びることを天の父は望まれない」とイエスさまは教えられました。わたしたちは、ありのままの自分を差し出すだけです。

2012年11月18日の説教

年間第33主日:「選ばれた人たち」にとって死は滅びではない
死は不安な、怯えながら待つ時ではなく、熱心に、期待しながら待つ時なのです。それは、「今日」という日を目覚めて生きることの先にあります。「終わりの時」が今から始まっているのです。

第一朗読と第二朗読を下の方に掲載しましたので、続けてお読みくだされば嬉しいです。実は、カトリック教会の主日(日曜日のこと)のミサでは第一朗読、第二朗読に続いて、三番目に上記の聖書(福音書)が朗読されます。

【注】第一朗読は復活節を除き、旧約聖書が朗読されます。因みに、復活節は新約聖書の使徒言行録が朗読されます。また、第二朗読では、新約聖書の中の使徒書と呼ばれる聖書が朗読されます。

第一朗読>>ダニエルの預言

(ダニエル12・1-3)

その時、大天使長ミカエルが立つ。
彼はお前の民の子らを守護する。
その時まで、苦難が続く
国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
しかし、その時には救われるであろう
お前の民、あの書に記された人々は。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。

第二朗読>>使徒パウロのヘブライ人への手紙

(ヘブライ10・11-14、18)

すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。

日曜日の聖書
シェアをお願いします!
この記事を書いた人
yaziro

このサイトの運営者yaziro(ヤジロー)➡ カトリック教会のこと、デジタルのことに関心を持つ iPhone 好きジイジです。
最近はWordPress、Line、Web会議システム、YoutubeやOBSの活用法に没入中!
yaziroの名は、1549年聖フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内してきた薩摩の人・ヤジローにあやかっています。

yaziroをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました