受難の主日(B年)の説教=マルコ15.1~39
2015年3月29日
きょうは受難の主日です。四つの福音書には、それぞれイエスさまの受難の話が記されています。内容としては、大筋で一致していますが、福音記者のアクセントの置き方に違いがみられるようです。 今日はマルコの福音書が朗読されます。かれ特有のテーマは、イエスさまが捕えられ、裁かれていくことを語りながら、最終的には「イエスが神の子である」ということを宣言しようとしています。
祭司長、長老たちの前にいるイエスさまの姿に、「神の子」であることを感じさせるしるしは何もありません。むしろ、彼らの陰謀にはまった弱々しい一人の人間でしかありませんでした。それだけみすぼらしい姿であり、情けなさを感じさせる瞬間の中にイエスさまはいたのです。
ファリサイ派の人たちにとっては、計画が成功し、邪魔者を抹殺できた勝利の瞬間であり、弟子たちにとっては敗北を感じさせる時でした。 こうした絶望感の漂う真っただ中にあって、また、人間的な常識では「すべて終わり」と思われるその時に、イエスさまの受難の結びを高らかに宣言するのです。
「まことにこの人は神の子であった」と。しかも、その宣言をしたのは選民にユダヤ人ではなく、イエスさまの話を聞いたこともなければ、その奇跡を見、経験したこともないローマの百人隊長だったのです。この隊長は、多分、イエスさまが受けた暴行の瞬間からずっと、イエスさまに付き従っていたのではないでしょうか。そして、イエスさまの臨終を見届けて、あの言葉を口にしたのでした。
百人隊長は、苦しみにじっと耐えながら前に進もうとしているイエスさまに、何を見たのでしょうか。何を感じ取ったのでしょうか。イエスさまの外見を見る限り、「神の子」であることを感じさせるものはないのに、・・。 百人隊長は、イエスさまの十字架の道のりに伴いながら、イエスさまの人々への対応を見るにつけ、イエスさまのやさしさ、愛を感じ取っていたのではないでしょうか。
その姿を、最後の最後まで貫いたイエスさまの中に発見したのでしょう。そういうイエスさまに会えた隊長の喜びが、「この人はまことに神の子であった」と言わしめたのでしょう。 わたしたちも「見せる信仰」を大事にしたいと思います。なかなかですけど、・・。復活祭までの一週間、一歩一歩、着実に「大事さ」を自分のものにしたいです。
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