
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
四旬節第2主日(A年)の説教=マタイ17・1~9
2026年3月1日
「 御覧ください、与えられたこの生涯は 僅か、手の幅ほどのもの。 御前には、この人生も無に等しいのです。 ああ、人は確かに立っているようでも すべて空しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。 ああ、人は空しくあくせくし だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」(詩編39の6~7)
わたしたちの人生は、確かに「わたし」の人生です。わたしのものです。が、その実、本当に確かでしょうか。上の詩編に謳われているように、「確かに立っているようでも すべて空しいもの」と感じるときはないでしょうか。誰でも、物心がついてくると、自分がしたいことがはっきりとしてきます。そして、そのために計画を立て、それを実現させます。その結果がうまくいけば喜ばしくて、満足感を味わうことができます。でも、その喜びも嬉しい感情も束の間の出来事になってしまいます。そのような体験はないでしょうか。つまりは、このような生き方そのものに対する空しさを感じた方がいらっしゃるのではないかと。
日々が暮らしにくくなるといえば、何も大きいことに関する失敗、挫折があるからではなく、小さな日々の出来事の中にこそあるといえます。素朴な日々の暮らしの中に潜んでいる寂しさ、空しさ、これらが「わたし」を嫌にさせてしまうのです。
わたしたちの人生は「わたし」の人生でありながら、その外側からたくさんの介入があり、邪魔されることが多々あります。すなわち、他者の影響を受けること大です、ということです。しかし、それによって「わたし」の人生がより豊かになり、高められていくのも事実です。
先に引用した新聞投稿を読んで思います。年齢に関係なく、人同士の交わりが減っていくということは、ある意味、由々しいことではないでしょうか。それによって、人の成長が鈍ってきます。つまり、言葉の語彙不足と表現力の低下、それによる日本人としての情、振る舞い方の欠落、たどり着くところは、「慮る心」の欠如です。
それでいて、「わたし、傷つきやすいの・・」と言って、予防線を張ることには長けています。そう言われると、話しかけることを躊躇する人も出てきますよね。しかし、予防線を張ることによって他者を受け付けないという姿勢が、その人の成長を妨げている要因になっています。わたしにはそう思えてきます。とにかく、自分に敵った人だけと付き合う、コミュニケーションを密にするということは、その人の人間性も幅の狭い、奥行きの浅いもので終わってしまうのではないかなと危惧します。

デジタル化が進むのは結構な話です。だからといって、人同士のコミュニケーションが減退してもいいということにはなりません。かつて、同じ喫茶店に来ていた恋人同士(?)、カップルが目の前にいる相手に対して、ラインでコミュニケーションを取っている姿を見て笑ってしまいました。彼らも笑うときには顔を見合せて笑うんです。
確かにラインでは短い単語の表現だけで通じ合うので、しかも近しい間柄のやり取りなので、丁寧語、尊敬語等、使い分けの術(すべ)が身につくわけがありません。
こう考えると、一人ひとりの人生は、自分のものでありながら、自分のものではないところを感じてしまいます。現に、自分の思い通りに日常は進めませんよね。だとすれば、具体的に「ここに」呼ばれた、「あそこ」に招かれた一人ひとりの歩みという側面はないでしょうか。
聖書にはそうした人の歩みが描かれています。
「主はアブラムに言われた。 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。 地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12・1~4a)
アブラハムは呼び出されて、与えられた道を歩んだ人です。しかし、わたしたちにとって、このような歩みに自分を委ねることができるのは、語りかけられた声がまがいものではない、と信じることができるときです。
今日の福音書は、タボル山での主の変容の出来事が読まれます。イエスの姿が三人の弟子の前で変わり、その顔が太陽のように輝き、モーセとエリヤと語り合うのを目にしたとき、ペトロは「わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう」と申し出ています。しかし、これは聞き入れられず、雲の中から「これはわたしの心に敵う者、これに聞け」という指示が返ってきます。この声に耳を開いて聞き続けるとき「呼び出され、与えられた」道が見えてきます。
イエスは「与えられた」道を歩んだ最たる方です。イエスを聞き続けましょう。
主の変容は、イエスが神の子であることを明らかにするだけでなく、山を下りて宣教という日常へ戻ってゆく弟子たちを励ますための出来事でもありました。
わたしたちの人生は、「わたし」のもでありながら、その実、神に「与えられた」道です。



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