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聖ペトロ 聖パウロ使徒:自らをよく知って、霊の導きに気づきましょう

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聖ペトロ 聖パウロ使徒(C年)の説教⇒2025/06/29

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

聖ペトロ 聖パウロ使徒の説教=マタイ16・13~19

2025年6月29日

「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1章27~31節)

このパウロの言葉は、教会の最高指導者にあたる教皇に当てはまります。事実、歴代の偉大な教皇の中には、平凡な貧しい労働者の家庭から出た方が多いとのこと。ということは、同時に、教会内で公の奉仕職に就いている人、司教、司祭にも当てはまるのではないでしょうか。

初代教皇ペトロがまさしくそうでした。名もない漁師あがりでごつごつした熱血男児でした。短気なうえに、せっかちでうぬぼれが強く、いつもぼろを出していたので、イエスに叱られ、いましめられながらも日々を過ごしていました。でも、人一倍イエスに対する信仰と愛を身をもって示したのです。

聖ペトロ 聖パウロ使徒:「あなたはメシア、生ける神の子です」
聖ペトロ、聖パウロ使徒の聖書=マタイ16・13~19 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

その出来事を見ることができます。きょうは、両使徒を、聖書に描かれている姿を眺め、二人の「使徒」としての思い、心に近づけたらと思います。

「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。」(ルカ5章2節~7節)

魚取りに関しては、ペトロはプロでした。ずぶの素人のイエスから魚取りに関して指示されましたが、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」といって漁を始めるのです。イエスへの信頼心の現われとでもいえるでしょうか。

また、ペトロの せっかちでうぬぼれの強さが出ているかなと思わせる次の個所があります。みなさんはどう思われますか。

「ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。・・・」(ヨハネ13章8~10節)

イエスは最後の最後まで、つまり、自らが十字架刑に服するその時まで、弟子たちを導き、励まされます。ところが弟子たちといえば、人間的な未熟さ、弱さが、イエスの招きに勝ってしまうのです。ゴルゴタの丘への道すがら、ペトロはイエスを「知らない」「関係はない」といってイエスを否定してしまうのです。その前に、イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエスを裏切ります。

「 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(26章14節~16節)

一方で、パウロはキリストの時代に小アジア(今のトルコ)のタルソに生まれ、はじめのころはサウロと呼ばれていました。ユダヤ人の両親からユダヤ教の律法やアラメアの母国語以外に、世界語としてのギリシャ語、天幕創り、毛せん織りなども学んだのです。この青年にとって、神殿での礼拝、律法の尊重は最高の理想でした。しかし何においても度が過ぎると、次第に排他的に、独善的になりやすくなります。

イエスの新しい教えは、イスラエルの神を冒涜し民を惑わすものだと、律法学士らに吹き込まれた青年サウロもこれを邪教と決めつけ、怒りに任せてイエス派の人々を根こそぎにすることを誓ったのでした。そして、ダマスコへと向かいますす。その途中で、イエスに声をかけられます。サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らしたのです。サウロは地に倒れ、

「「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。 サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。」(使徒言行録9章3節~8節)

こうして回心したパウロは、イエスを信じる人々の間で疑われ続けたのでイエスは決断します。

「主は言われました。『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』 わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」(使徒言行録22章18節~21節)

両使徒はそれぞれに託された使命を果たし、イエスの栄光を讃え、人々に福音を伝えました。二人に共通するのは、イエスへの信仰が深く強いこと、ことに対して熱心で一生懸命であること、何よりも自らの弱さをよく知っていたのではないかと思われます。だからこそ、最後は自分の力に頼るのではなく、聖霊にみたされてその導きに身を委ね、したがっていったということでしょう。

わたしたち一人ひとりへの、霊の日々の導きに気づきましょう。そして、自らを委ねて生きましょう。

福音宣教者としての大先輩、保護の聖人である聖ペトロと聖パウロ、福音を宣べ伝えている今のわたしたちを支えて下さい。前に押し出してください。アーメン

 

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