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説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第6主日(C年)の説教=ルカ6・17、20-26
2025年2月16日
いきなりですが、みなさんは想定したことはないでしょうか。と言いますのは、今、自分が置かれた環境において、直接、イエスに話しかけられることを、・・。想定してみるのもいいかなと思うときがあります。その情景が膨らんで発展していくのではないかと、・・。とても豊かに、楽しく、素晴らしいことの連続なのでは。そして、そのこと自体が、立派な祈りになっているのではないですかね。
福音書の中のイエスは、こうした雰囲気、わたしたちの卑近な日常の中で、わたしたちと接していらっしゃいます。ぬくもりのある温かな声、豊かな表情、そして、いろんなことを、さりげなく配慮しながら相対してくれる姿等、すべてわたしたちを満足させて、その上、安心させてくれるものです。安心感、幸せ感を満喫できる瞬間ではないんでしょうか。
きょうの福音書は、みなさんご存知の「山上の説教」です。こうした状況を背景にすると、想定がわりと楽しくできるのではないでしょうか。しばらくその光景を想定し、楽しんでみるといかがでしょう。いい黙想ができるのではないでしょうか。神に向かってぬかずくのは、願いごとをかなえてもらうため、おねだりというよりも、今の「わたし」の生き方の指標を仰ぐためです。神の前にぬかずいてみましょう。
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ところで、皆によく知られている山上の説教は、マタイ5章1~12節がよく知られています。
「イエスは口を開き、教えられた。
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」
みなさんもよくご存じの通り、ルカの山上の説教とは、その書き方において、大いに異なるところがあります。しかも、マタイは文字通りの山の上での話です。ところがルカは、山の麓での話となっております。そこで、今の聖書の小見出しには「平地の説教」となっています。(フランシスコ会聖書研究所初版)
マタイにおいてもルカにおいても、一番最初に取り上げられる幸いな人は「貧しい人々」です。しかし、ルカにおいては「あなたたち」と具体的な表現になっています。これは親しみと励ましの心を表すためでしょう。また、「神の国はあなたがたのものである」からですが、ここでは動詞が現在形で書かれています。これは、神の国が、人々が貧しい状態にあるとき、すでに始まっていることを表しています。
一方で、ルカは21節で「今飢え、今泣いている」というように「今」を加えています。これは「今」の状態を根底から変えるときがすでに到来しており、「あなたがたは満たされ笑うようになる」からです。ここでは、動詞は未来形を使用しています。それは完成するのはまだ先のことであるということ、でも、神が約束することなのでその成就は確実なものであるということです。ですから、わたしたちは神への信頼のうちに、今のあり方を大事にしていくことができるのです。このことをさらに深めていくところに、わたしたちの日常の信仰生活が横たわっています。
さらにルカにおいて、マタイと大きく異なるのは、「不幸である」と訳されている表現です。これを裁きの宣告である、というように受け止められた方がいるかもしれませんが、そうではないのです。裁きの宣告ではなく、「ああなんて不幸なのだ」という憐れみの叫びなのです。「不幸」を叫びかけられるのは、「富み、満腹し、笑い、褒められている」人です。
「平地の説教」を全体的に見て感じるのは、「貧しい人々」が一番重要な言葉、表現として使われ、重大な意味を帯びているということです。「貧しい」という言葉自身が持つ意味合いを考えないといけないのだということです。イエスはその意味ある深い配慮をって使われたのでしょう。困窮の中で神を信頼する「貧しい者」の叫びを、神は必ず聞いて救いの手を差し伸べてくださる、と旧約聖書は励ましています。
「主は貧しい人の苦しみを 決して侮らず、さげすまれません。 御顔を隠すことなく 助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会で あなたに賛美をささげ 神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。 いつまでも健やかな命が与えられますように。 地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。」(詩編22の25節~28節)
ここでイエスは、貧しい人たちに何も要求することをなさいません。心の清さとか、その他精神的な姿勢の要求をしていないのです。イエスが宣教先で目にしたありのままの姿を見て逆に心配し、つつみ込もうとするイエスの心が込められています。ですから、押しつぶされ、見捨てられているあなたたちのことを神が心配し、救おうとされているのですから、「喜びなさい」というメッセージがここに込められています。
究極的にイエスのメッセージは、「喜びの訪れ」なのです。それは現実の今の世界において実現する、社会の底辺に生きる貧しい人々の大きな希望なのです。
「わたし」にとっては、どう・・・・・なのでしょう?!
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