『年間第25主日』の聖書と説教はこちら

年間第25主日:古傷に拘らず、ありのままの自分を差し出すことが出来れば…

この記事は約5分で読めます。
年間第25主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第25主日(B年)の聖書=マルコ9・30~37

2024年9月22日

 日本のあちらこちらで小・中学生のいじめ事件が起きています。最近は、こんなふうに思いたくはありませんが、いとも簡単にこうした類の事件が起きてしまっている気がしてなりません。どうしてなんでしょうか。同じようないじめが何回起こっても、その一連の根本的な原因追及、検討するところまではいかないままが、今までの「いじめ対策」だったのではないかと嘆き節が出てしまいます。

起きてしまった目の前の事件を究明することは大事です。でもそれについてもかなりの時間をかけてしまいます。「人」を相手にした事件なので、慎重さがより要求されるのはよくわかります。それにしても、先日公表された旭川中2女子いじめ自殺の再調査報告書は、2021年のことです。北海道旭川市いじめ防止対策委員会が一度は、2021年9月に調査結果を市教育委員会に提出したんですが、遺族の方が「調査が不十分」と訴え、10月に再調査が決定されたのでした。(南日本新聞2024年9月14日朝刊)

この報告者の中で、わたしが気になったのが「学校や市教育委などの対応」の項でした。それによると、「いじめ対策防止推進法は、相手に対して心身の苦痛を与える行為をいじめと定義している。学校の調査は、この点の対応がされていなかった」という内容です。それは、いじめ防止法の理解欠如であるといえます。しかし、法的な問題ばかりではなく、教育そのものは本来は「人」を相手にすることがその中心にあるのではないでしょうか。となると、教育そのものに対する、日頃の考え方、生き方が問われる重大な問題を含んでいると言わざるを得ません。

教育は、組織体系、法的整備だけで行われるものでもないでしょう。なんといっても、学生・生徒自身に向かう姿勢から始まるのではないでしょうか。やはり「人」です。だからこそ、学校側としてはいじめ事件として学校の歴史にその事実を残したくないという思いが働くのでしょうか、できるだけ穏便に済ませるものならそうしたいと動いてしまうのでしょうか・・。

人はどうしても未来を築こうとするとき、過去を振り返り、今の自分を確認しながら未来に向かおうとするのではないでしょうか。誰でも不安を感じつつ、新たな世界に挑戦いたします。その際、自らは過去の過ちから目をそむけ、忘れていきたいと思いつつも、他人からはその古傷に触れてもらいたくはないでしょう。誰にでもあることではないかと思いますが、いかがでしょう。

年間第25主日:イエスは言われた「すべての人に仕える者になりなさい」
年間第25主日(B年)の聖書=マルコ9・30~37 〔そのとき、イエスと弟子たち〕一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。

ところが、聖書は違っています。今日の福音書にある通り、イエスの後継者・弟子たちの愚かさや過ちから目をそらすことなく、目をつぶるようなこともなく、さらには特に弟子たちの言動を美化することなどまったくもって、そのようなことはしないのです。むしろありのままを記し、紹介しています。弟子たちがどんなにあさましいのか、愚かなのかがよく読者には分かります。

きょうの弟子たちの姿は、なんともごく人間的な、そんな議論までするか、と言いたくなるような問題が取り上げられています。つまり「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていた」のです。具体的なやり取りは記されていませんが、弟子たちの心に生きている弱さからくるかもしれない慢心、さらには野心がしっかりと根付いていることがわかります。こうした事実を隠さず、聖書はわたしたちに知らせてくれます。その極めつけは、十字架の道を歩まれているイエスのことを、ペトロは「知らない」と宣言して、その挙句の果てにはイエスを捨て、逃げ去ってしまいます。

これらは、弟子たちのあさましさ、弱さ、醜さ、汚れた部分です。彼らはその醜さ等から決して目をそらさないのです。自分たちの弱さ、足りなさ、醜さをしっかりと直視し、さらには彼らの罪をも隠さず、ありのままの自分を受け入れているのです。ここに、弟子たちが変えられていったすばらしさがあるのではないかと思います。自分たちの現実を認め、受け入れているからこそ、学ぶことにより謙虚になれたのでしょう。

わたしたちの今ある現実はどうでしょうか。情けないダメな「今の自分」を受け入れることと「卑下する」ことは違います。卑下するとは、自分が劣った・へりくだったことを意味します。

ただし、本当に自分が劣っていることを意味するものではなく、わざと自分を低く見せている様であり、謙遜している状態です。相手を称えるために自分の評価を下げてみせているのです。今の自分のありのままを受け入れることは、勇気のいる作業です。

弟子たちもわたしたちと同じ弱い、醜い、時には、いやらしい不足だらけの人間でした。彼らはそのことを認め、受け入れ、そこにとどまりながら謙虚さを学んでいったのでした。そして、イエスに出会う恵みをいただいたのでした。そして、導かれ、さらに力づけられ、恵みにおおわれて豊かな人格者となっていったのでした。

それは、わたしたちの歩む救いへの道でもあります。つまり、弟子たちは、自分たちがそうであったように、神のあわれみを必要とするわたしたちに、救いへの道を示してくれたのです。後に、弟子たちが良き福音伝達者として残りのいのちを生きたように、わたしたちも、自分に残されたというより、神にいただいているこの命を、精一杯福音伝達に生かしてまいりましょう。いつも遅いことはありません。「今」が大事です。

過去の古傷に拘泥することなく、ありのままの「今の自分」を神の前に、イエスの前に差し出してみましょう。

 

年間第25主日【9月22日】の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました