四旬節第5主日(A年)の福音=ヨハネ11・1~45
2023年3月26日
わたしたちキリスト教では今、四旬節を過ごしております。その四旬節も後半に差しかかりました。が、典礼に「季節」があるということは意味があると思うのです。それが何かといえば、いくつかあるように思います。
典礼の季節/四旬節の意味を確認してみたい
第一に、四旬節は復活祭を準備するための期間であるということです。わたしたちの日常の中で、何かを準備するということは、目指す目標が重要であればあるだけその準備に、時間と準備内容が求められます。四旬節は6週間という、典礼季節の中でも一番長く設定されています。
第二に、洗礼志願者たちにとって、特別な期間です。洗礼の恵みが受洗者においてより豊かに実るために、受洗日を復活徹夜ミサに定め、その準備が徹夜際にむけられています。
第三に、信者たちが、すでに受けた洗礼の恵みを新たにする期間でもあります。信者たちは償いの業を通して回心を深めていきます。その目に見える姿が飲食の節制の実践です。1983年に定められた新教会法(第1249~1252条)によれば「四旬節における小斎と大斎は、灰の水曜日と受難の金曜日に順守する」ことが定められています。具体的に言うならば、家族の中で、戦火にある地区の人々への捧げものとして、四旬節の間は楽しくしているテレビ番組を家族で見ないことにするとか、毎金曜日にはおやつをカットしてその分を恵まれない人のために貯金し寄付するとかです。両方とも、他者のために何かを犠牲にして奉献するところに共通点があります。
現代人はイエスの何を信じているのだろう?
このような書き方をすると、やはり信仰することは理屈っぽいんだなと感じてしまう人がいるかもしれません。イエスの時代においては、イエスご自身が信仰することの指標でした。そのイエスが今日の福音では「あなたはこれを信じるか」とわたしたちの信仰を尋ねてきます。今の世界に生きるわたしたち一人ひとりは、イエスの何を信じているのでしょうか。
今日の福音書の話は、イエスの親しい友、ラザロが病気であるとの情報がイエスのもたらされることから始まります。これに対して、イエスはいとも冷酷に思えるほどの対応をなさいます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」といって受けあおうともしません。今のわたしたちは、同じような知らせを聞いたときイエスと同じような反応をするでしょうか。まずいないでしょう。「病気は神の栄光のためだ」と軽々しく(?)は言えないですよね。
マルタへの問い「あなたはこれを信じるか」
それが話題の展開とともにイエスの本性が明らかになっていきます。つまり、イエスの語る言葉からそれを知ることができるのではないでしょうか。ラザロの情報を受けた後、イエスは同じところに数日滞在されました。そして、ラザロがいるべタニアへとやっと行くことにしたのです。しかも、すでにラザロは亡くなり、墓に葬られて4日もたっていました。彼の姉妹マルタもマリアも悲しんでいました。するとイエスは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と訴えるマルタに言われます。「あなたの兄弟は復活する」と。
「死」という冷酷で無慈悲な現実の前では人間はまったくの無力です。それは今もなお同じです。わたしたちはその「死」を覆すほどの力を持ち合わせてはいないのです。マルタの先ほどの訴えは、イエスの中に、人間の力を超えたなにかをマルタは感じているのかな、というような気がしています。「あなたの兄弟は復活する」とイエスは言ってマルタを慰めようとなさいますが、それに対してマルタは即座に答えています。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と。
しかし、イエスは復活は今のことなんだ、といって、ご自分の中に現実を超える力があることをお示しになるのです。この時に発された言葉が「あなたはこれを信じるか」という言葉でした。
「規制の継続」という小さな見出しが目に入りました。(南日本新聞2023年3月23日朝刊)どんな内容だろうかと読んでみると、首相官邸における記者会見場の出席記者の数に関する規制でした。去る13日より「ウイズコロナへの移行」という考えのもと、マスク着用が緩和されました。が、首相官邸の記者席だけは、「三密回避や人との距離の確保など基本的な感染対策は重要だ」(松野博一官房長官)と、メディア側の規制解除の要求に応じていない」とのこと。それは、「会見に多くの記者が参加すれば、さまざまな角度から質問が飛ぶことになる。それが本来の会見なのだが、官邸サイドはそういう会見を嫌がっているということだろう」とコメントされています。さらに付け加えられています。「『政治的公平』を理由に放送局に圧力をかけようとした動きと同様に、報道を規制する考え方」であるということです。
人間同士の間では「信じること」は大事であると説きつつ、政治の世界では無用の長物(?)なのでしょうか、といいたくもなります。
イエスを信じること=イエスに帰依すること
しかし、時を超えて「信じる」ことは生きるために、救われるために、平和に暮らすためになくてはならない「宝物」です。イエスを信じるといえば、イエスに関することをほんとうだと思い、イエスに信頼をおき、イエスに帰依することです。だから、イエスその人というよりは、イエスを通して働く神に目を向けていることになるのです。
わたしたちが、いろいろな事(断食、祈り、その他の犠牲)に挑戦しながら求めていることは、結局は神の栄光を現すことになるものだということです。イエスの業(ラザロの生き返り)は、ご自分の死を招くことになり、人々を信仰に導き、究極的には神の栄光を現すことなのです。
それは、わたしたちの、いのちへの扉となりました。
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