主の公現(A年)の説教=マタイ2・1~12
2020年1月5日
時は、人間の思いとは関係なく流れ過ぎていきます。その過ぎ去る過程において、思いもよらぬことに気づかされることがあります。それは、自分の「変化」です。こんな「わたし(自分)」ではなかったのに、・・と。このような体験はありませんか。その瞬間に気づいたとすれば、明らかに自己の変化、成長を実体験できた時だったのではないでしょうか。
自分自身を意識的に思い起こしてみると
しかし、このような思いは、過ぎ去ってしまった後に気づくのが、普通のようでもあります。その時に、あぁ、あの時がきっかけになっていたんだなと、その時に関わった人、出来事、場所等を思い出すことになります。最近、自分自身を意識的に思い起こしてみることは、時には自己成長のために大切な必要事なのかなと思っています。
その中の一つとして、昔のことですが、思い出されることがあります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7章12節)というみ言葉が、とても気になり、日々の生きる指標にしていたことがありました。わたしが大神学校時代の話です。
少しずつ変えられたことを感じるのでは
このみ言葉を否定的な言い方に表現し直しますと、「人にしてもらいたくないと思うことは何でも、あなたがたも人にしてはならない」となります。この方が日本人にはピタッと来るのかなと思いますが、・・。当時のわたしにとっては、この方がしっくりときたのです。それで、手書きでB 4紙に書き、引き出しの一番上において、開閉するたびに見えるようにしました。行動を起こすのに、どちらかといえばネガティブな発想かもしれませんが、出発点として、当時のわたしにとっては無難な始まりでした。
しかし、そのうちに、このままでは物足りないことに気づかされ、少しずつ変えられてきたのかなと感じております。その助けの一つになったのがオルガンでした。オルガン伴奏、ミサ典礼の奉仕をするなんて、ずぶの素人であるわたしにとって、かなり厳しい体験でした。それまでオルガン未経験だっただけに、一任されたこともあり、積極的に取り組んでいく自分に気づいていったものです。
今日は主の公現の主日です。幼子誕生の星を目撃し、東方から三人の訪問者が来ます。これら訪問者たちを原文はマギと呼んでいますが、邦訳では博士とか賢者とよばれています。ヨーロッパの教会では王として解釈し、今日のこの日を、王の王であるキリストを礼拝する祝日としてきたようです。
「公現」はイエスと小さな人々との出会い
原文ではマギとよばれ、東方では尊敬のまなざしを向けられていたのでしょうが、ユダヤの世界では、偶像礼拝者と決めつけられ、異教徒の中でも最もひどい誤りの中に生き、邪悪に満ちた人として軽蔑されていました。いわば、社会の底辺で、のけ者にされていた人々ということになります。のけ者にされている者たちとイエスの出会い、社会の片隅でひっそりと暮らしている人々とイエスの出会いが実現したのが、今日の祝日のできごとです。
つまり、「病人」「遊女」「徴税人」「大食漢」と社会の人々から決めつけられていた人々、それゆえに否定され続けてきた人々の仲間に、この三人の訪問者を加え入れることができるのではないでしょうか。イエスはこうした人々を「いと小さな人びと」として守り、温かい手を差しのべられました。実にイエスは、このような人々が抱えていた重荷、労苦を背負うために、この世においでになったのです。
「イエスの誕生」は、社会のどん底に生きていた人々が、確かに、安らぎを得、傷ついた心がいやされ、いわば、「一人前」の命を味わい生きることができる「わたし」に変えられた時でもあるのです。イエスの、これからなされる救いの業は、人間社会における人と人の間のバリアは関係なく、むしろ、それをなくすことにあるからです。
東方からの訪問者とヘロデ王の対応は真逆
ユダヤ人の王の誕生を示す「星」を目撃し、その導きにしたがってエルサレムにやってきた彼らマギの目的は、新しく生まれた王を拝むことでした。「ユダヤ人の王」の誕生を示す星によって、罪から人を救う幼子の誕生が、異邦人(三人の訪問者)にも知らされたのです。幼子が成し遂げる罪からの解放は、すべての人に及ぶからです。
ヘロデも同じ「星」の話を聞いて、拝みに行くと言います。しかし、その言葉は偽りでした。ヘロデも同じ「星」の話を聞き、それを見ていたでしょう。にもかかわらず、反応はマギのそれと真逆です。ヘロデにとって、「ユダヤ人の新しい王」の誕生は、不安を抱かせる要因に他なりません。ヘロデには、マギに見えていた幼子の誕生の意味が見えていないのです。それによって異なった結末、真逆の態度をとってしまうことになったのです。
イエスとの出会いを実感できますように
今のわたしたちも、同じ環境、条件の中にいても、見方、感じ方によって違った態度に出てしまうことってよくあります。自らのエゴイズムや欲望に流されてしまい、イエスからの光が見えず、招きが分からず、その声が聞こえなくなってしまうのです。いつも不安が募り、安心できないのです。大事なことは、日頃、自分の信条をいかに豊かにしていっているか、でしょうか。
わたしたちは変わっている(成長している)自分を感じる時があります。まさに、救いを必要としている「わたし」と、それを救おうとしているイエスの愛との出会いが実現した時ではないでしょうか。「キリストのおんからだ」「アーメン」。
「一人前」の信仰者として、より変えられていく自分を味わい目指したいと願いつつ、・・。
コメント