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年間第30主日:神の恩恵を具体的に自覚して「神の側」に立っているか?

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2017年説教の年間テーマ「神のふところ」

【神のふところは限りなく大きい】

年間第30主日(A年)の説教=マタイ22・34~40

2017年10月29日

マスコミで飛び交った「忖度」を考えてみると・・・

かつて、「忖度」という言葉が、報道の世界で飛び交う時期がありました。この感覚は日本人独特のものなんでしょうか。そうでもないと思うんですが、英語にはずばりの訳語が見つからないと、英語に堪能なある方にいわれたことがあります。

辞書を引きますと「他人の心中をおしはかること」(広辞苑第4版・岩波書店)とあります。あくまでも主観的な視点に立っての判断ですし、行動ということになるんでしょうか。したがって、その「他人」の人の心中の的を、確実に射ているかどうかは確認のしようがありません。一言でいえば、「善意」からの言動になるといえるでしょうか。ということは、親しい間柄だから「推し量ること」ができるということになりそうです。

人は世話になったら、自然に感謝の心が湧いてくるもの

一方で、自分の人生のいろいろな場で、しかも、重要な局面において助けていただき、お世話になった人には、それ相応の対応が必要だということは、誰もがわかってきますよね。「忖度」に頼ることなく、黙っていてもありがとうの言葉と動きが自ずと伴ってくるのではないでしょうか。大切に思い、そう行動するに違いありません。それがまた、人としての自然な姿ではないかと思うのです。何も他人から言われなくても、動き出すことができます。ましてや、法律で決められるようなことでもありません。

こうした感謝の心、人を大切にする思いを養成し、そのように振る舞うように、実施するようにと、仮に、法律で決められたらどうでしょうか。どのように思われますか。どのような答えがありますか。

感謝の心と行動を促す掟をどのように捉えるべきか

今日のイエスさまは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これがいちばん重要な、第一の掟である。第二もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛しなさい』。すべての律法と預言者は、この二つの掟に基づいている」と、「愛する」ことが「掟」であるといわれます。

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この言葉は旧約聖書の申命記にあります(6章5節)。森一弘司教によりますと、ユダヤ人たちは朝夕2回、申命記のこの個所と民数記15章37節~41節を、信仰告白としてとなえていたといいます。民数記の箇所には「こうして、お前たちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、お前たちの神に対して聖なる者となるからである。わたしは、お前たちの神、主であり、お前たちの神となるためにお前たちをエジプトの地から導き出した。わたしは、お前たちの神、主である」とあります。

愛の掟は神に恩義を感じるユダヤ人の信仰表明であった

この個所は、神を愛さなければならない理由の説明が、その息子たちになされています。つまり、神から受けた恵み、助けに恩義を感じているユダヤ人たちの、代々受け継がれてきた心の表れ、祈りであります。こうしないではおれない感謝の心の必然的な芽生えであるといえます。

恩人がもし非難されれば、擁護の側につくはず

わたしたちの日常でも、同じようなことを味わっておられるのではないでしょうか。そのような「恩人」を誰もが感じ、誰にでもいらっしゃると思います。その人が非難されるようなことでもあれば、擁護の側にまわります。自分の大恩人だからです。その方を大事に思う心、仕草、動きは誰かに強要されるわけでもなく、自然発生的に沸きあがってきます。それが、自分のいのち、人生の恩人ともなれば、なおのことです。

こうした考えがあって、イエスさまは「愛の掟」を、ユダヤ人の実体験を背景に述べられます。イスラエル人にとって、神は彼らの存在そのものの根拠になっているのです。これが、かられにとっての歴史上の体験でした。そして語り継がれていったのです。これ以外に選択肢がなかったといえます。

そして、今のわたしたちには、イエスさまの十字架の贖いが普遍的な救いとなって及んでいます。この事実がわたしの中で咀嚼されているかどうか、じっくりと祈りのうちに味わってみましょう。

いつの時代も、何事に対しても、その人の、ものの「側に立つ」ということは、その人の恩恵に与ったという自覚の大きさに比例します。はたして、「神の側」に立っていますか、いませんか、・・。

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