年間第23主日(A年)の説教=マタイ18・15~20
2017年9月10日
毎日のテレビ、新聞等の報道には、大人から子どもにいたるまで、人の心をわくわくさせるものもあれば、ハラハラドキドキさせられるもの、様々です。一人ひとりが違う存在であることを思えば、これだけの数の事件事故があってもおかしいことではないでしょうが、それにしても、概して、悲しい、残念なニュースがあまりにも多い気がしてなりません。
最近の自然災害のニュースを見て感じること
今の時期のニュースを見て感じることがあります。近年は、毎年、自然災害が発生します。梅雨末期の頃であったり、急な集中豪雨に見舞われたり、また、台風の被害であったりと、その状況はいろいろです。しかし、共通して言えることは、人間の力ではどうしようもなく強大なエネルギーを前にして、人は、なす術もなく、自分たちのひ弱さを感じてしまうということです。
自然の驚異が避けられないなら、次の機会に備えたい
ただできることは、その経験をもとに、自然の脅威を避けることができないのであれば、次の機会に備えること、しかも、最小限の被害にとどめるにはどうしたらよいかの対策を講じることが、精一杯のことではないでしょうか。もちろん、犠牲となった方々のためのお祈りは欠かすことはできません。
こうした経験をしたうえで、この逆境に立ち向かって生きようとしている方々が存在していることも力強いことです。生きる希望を多くの方に与えてくれます。その中で、「紀伊水害 6年」という記事がありました。
水害体験をもとに逆境に立ち向かう人々がいる
「流失の自宅跡 育つ夢」の見出しで、水害当時、高校一年生だった山本真耶さん(21歳)が、キクラゲ栽培を始めたことが紹介されています。(讀賣新聞大阪本社2017年9月4日夕刊)
崩れ落ちた土砂に覆われた地は今春、復興を願う新たな特産品作りの場になったということです。和歌山県田辺市伏菟野の自宅跡に立つビニールハウスで、彼女は水害で亡くした祖母と母の二人に誓ったのです。「地域のために、前を向いて生きます」と。栽培のきっかけになったのが「キクラゲを作らんか」という近所に住む打越さとみさん(48歳)からの誘いでした。
復興めざし、新たな特産品で地域の活性化へ
伏菟野は三年がかりで再整備されたのですが、住民が三割近く減少し、地域の活性化が課題になっていました。キクラゲは、湿度の高い地元の環境が適しているという利点を生かし、特産化を目指す提案に、お父さんが水田跡を用地として提供すると決め、彼女が就職先の仕事を辞めて飛び込んだのでした。特産品は復興を願って「夢のきくらげ」と命名し、今年3月より栽培を始めたのだそうです。
真耶さんは、祖母と母への誓いが、前に進む大きな力となっていましたが、その誓いの先には、祖母と母の奥には、まだ見ぬ神が控えているのです。わたしたちは人を介して神の絶対性、やさしさ、広さ、豊かさを学び取っていきます。そして、信じていこうとします。さらに寄りかかっていくのです。
信仰は個人的なものであると同時に「共同体的」
信仰は個人的なものでありながら、同時に、共同体的なものです。つまり、動機は個人の中に生じます。しかし、そのままでは終わらないのです。広がりがあります。喜び、悲しみ、やすらぎを共有しあうことができます。人の営みが、決して一人では前に進まないように、信仰者の生き方も一人っきりでは前に進めないのです。だって、人は弱い存在だからです。だから、助け合い、慰め合い、励まし合う共同体が必要です。人は生まれながらにして、いつも他者に開かれています。
「兄弟が罪をおかすことがあったら・・・」で始まる今日の福音は、罪をおかすものに対するかかわり方を教えるものでしょう。要するに、イエスさまは罪びとを放っておけないのです。罪はその人の命を傷つけます。つまり、神からその人を遠ざけてしまうのです。だからこそ、罪を曖昧にしておくことは、神の望みではないのです。新たな罪は、ますます、その人を罪に鈍感にさせます。
罪を犯す人があったら、二人だけの間でいさめなさい
だから、「罪を犯す人があったら、二人だけの間でいさめなさい」といわれます。悪いことは「悪い」ときっぱりと宣言できること、その勇気はその人に対する愛です。イエスさまの十字架の犠牲を無駄にしない、一人も滅びることを望まない神のみ心を実現することになります。
わたしたちの日常、何気なくしていることは、いつも神の意志との関りの中でやっていることです。一人ひとりがこのことに目覚めていくときに、人からの忠告も進言も、助言も素直に「わたし」の中に入ってくるのではないでしょうか。そして、真耶さんのように前に進む大きなエネルギーになっていきます。その先に、神の望まれる「国」が見えてくるのでしょうか、‥!
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