年間第2主日(B年)の説教=ヨハネ1.35~42
2015年1月18日
世の中、話題性の高い人の動静が報道され、また、影響力の強い出来事が発生しますと、わたしたちの周辺はにわかに騒々しくなります。ある人にとっては、出来事の中身によりますが、我を見失うほどの状態になることもあるようです。ある人は「暴徒」と化し、ある人は引きこもりになったりします。一つの出来事が、人一人を、また、民衆全体を変えるだけの力となっているのです。
事実、わたしたちはこのような事件を、生きる現場でたくさん見聞してきました。何も、ネガティブなことばかりではありませんが、・・。そして、その事件から、また新たな出来事(話題)へと展開していくのです。「イエス誕生」も歴史上の出来事として、当時の人々にとっては影響力の強い事実だったのです。
降誕祭、公現祭を過ごしてきた今、「イエス誕生」という出来事にまつわるエピソードが祝日の典礼の中で朗読されました。誕生したメシア(救い主)のひ弱さ、貧しさ、無力さが聖書の中では浮かび上がっていました。普通にわたしたちが祝う誕生日の華々しさも全くありません。
当時の大方の人々にはイエスさまの誕生は、ごく普通の貧しい人々の間の、当たり前の誕生日として見過ごされていたはずです。この小ささ、貧しさの中にあって、際立っているのが神の「働きかけ」です。それというのは、一つは天使たちのメッセージであり、もう一つは、東方からの訪問者たちを導く星でした。
こうした神からの働きかけにこたえ、敏感に反応した人々は、ほんのわずかな人たちでした。逆に言いますと、神からの働きかけは、特殊な、際立っているものではなく、日常的な動きの中で示されるということができないでしょうか。羊飼いにしても、東方からの訪問者たちも、神から差し出された日常的な呼びかけに応え、隠された神の救いの計画の中に引き込まれていったのです。
今日の福音では、わたしたちに隠された神秘を示す人として、洗礼者ヨハネが登場します。「見よ、神の子羊を!」弟子たちは素直にイエスさまの後についていきます。そして、イエスさまとともにとどまることになります。「とどまる」とは、イエスさまに引き寄せられ、そして、イエスさまにゆだね、ともに生きることを選択することです。「呼びかけ」の動きは、そこまでを意味しています。呼びかけについていくのかどうかです。
最終的には、日常の中で、ごく普通の生き方の中でなされる神からの「呼びかけ」を無駄にすることなく「とどまる」ようでありたいです。
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