主の奉献(A年)の説教=ルカ2.22~40
2014年2月2日
かなり古いお話しになりますが、その当時、東南アジアには日本からよく訪問者がありました。その目的は何かといいますと、「戦没者慰霊碑の建立」と現地での合同祈願ということでした。その他にも目的はあったのでしょうが、毎年「慰霊碑」建立のために、多額のお金を持参し、記念の地に建てていかれたのです。
わたしが滞在していたその地でも、同じようなことがありました。祖国のために敵地で戦い、その命を落としたたくさんの兵士には敬意と感謝を捧げたいと思います。同時に、その敵地に、自国の兵士だけのための「碑」はどうしたものかとの相談を受けたこともあります。
現地の人びとは、表面きって愚痴、不満を言ったり、見せたりするわけではありませんが、あまり面白くない話をあちらこちらで聞いたことがあったのです。それでも、亡き人々との絆を確認し、祈りを捧げるにはよきしるしであるといえます。そして、後世の人びとに伝えていくのです。
こうした類の出来事は、時代を超えて、地域を超えていたるところにみられるのではないでしょうか。
イエスさまの時代に大事にされていた「律法」には、こうした内容のものがあったのではないかと想像できます。「すべての初子を主にささげる」という律法は、主がエジプトから民を導きだそうとした時、それを妨害したファラオの頑なさを戒めるために、エジプトの初子を撃ったことを忘れないためである(出13章14節~16節)と言われています。
今日は、マリアとヨゼフがこの律法にしたがって、イエスさまを主にささげようとして神殿に来られたのです。それは「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして捧げるため」であったと、福音書は伝えます。
さらに、マリアとヨゼフの「驚き」についても関心を示してみたいです。両親はシメオンの賛美の祈りを聴いて「幼子についてこのように言われたことに驚いていた」と、ルカは伝えます。両親は生粋のユダヤ人として、律法で定められたことはみな分かり、果たしてきたのです。
ところが、シメオンから今まで聞いたこともない内容の預言を聴いたのです。わが子がどのような生き方をするのか、救いへの道はどのようなものなのか、訳がわからないほどに「驚いてしまった」のです。
この驚きが、マリアとヨゼフのこれからを導いてくれます。「これらを心に留め、思いめぐらす」生活の中に、神の、イエスさまのほんとうの姿を見出していかれるのです。
聖家族の新たな生活の始まりとなった「主の奉献」ということができるのではないでしょうか。
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