主の昇天(A年)の説教=マタイ28.16~20
2014年6月1日
わたしたちの「DNA」に、同じなものは一つとしてないということが、とても不思議に思います。専門家にとっては当たり前のことでしょうが、・・・。
ただ、現在では、他にも活用している分野があるのでしょうが、よく知られているところでは、本人のものかどうかを検分する時に、「犯罪」の有無を確認するための手段に利用されているのが、ある意味、さびしい気もします。しかし、平和な、安心できる家庭、社会を実現するために、役に立っているのも事実ではないでしょうか。
でも、本当の平和、安心は個人の中にその出発点があると考えております。一人ひとりが平和実現のために突き進んでいくことです。「理想だよ、そんなの」と言われそうですが、「理想」は実現させなければいけないのです。そして、人はそれを実現できる力をも秘めている存在なのです。
平和のための最後の砦、それは、一人ひとりにかかっています。そのような自分を見失うことのないように、意識してみたいですね。
今日の福音では、弟子たちにとって、いつも、何事に関しても、自分たちの楯となり力となってくれていた「イエスさま」が目の前からついにいなくなってしまうのです(昇天)。
彼らはどのような思いでイエスさまを見送ったのでしょうか。それまでのイエスさまと弟子たちの関係を見れば、その別れがどのようなものであったのか、彼らがどんな心情になったのか、推測できなくもありません。
イエスさまの死去の後、弟子たちは「群れる」ことで、自分たちのもろさを、弱さを乗り越えてきました。そこにイエスさまが現れ、弟子たちのイエスさまへの人間的な甘えと依存心を断ち切ろうとなさいます。同時に、自立の道をたどることができるように、聖霊の派遣を約束なさいます。
こうして「見ずして信じるものは幸いなり」に示されている信仰が、弟子たちの中に根を下ろしていきます。 それまでは、イエスさまご自身が弟子たちの生きる「根」になっていたのが、イエスさまからの「愛と恵み」が、人生の「根」になっていきます。
イエスさまの十字架の苦しさを通して、人の救いが実現し、平和が訪れたように、弟子たちもイエスさまとの別れの悲しさと辛さを通して、彼らの信仰の質的な高まりと深まりを完成させていくのです。そのための実現の原動力が「聖霊」なのです。弟子たちはイエスさまの言動に「賭けていく」ことを学んでいくのです。
DNAが人の数だけあるように、イエスさまの恵みも人の数だけあるのです。理想を追い求めて弟子たちは動き出す準備態勢に入ったのです。この事実を証明してくれるのが今日の「主の昇天」の祝日です。一人ひとりの違いは、多くの、大きな困難を乗り越えていく力なのです。
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