復活節第6主日(A年)の説教=ヨハネ14.15~21
2014年5月25日
ある日めくりカレンダーに「病の半分はストレスが原因」と書かれてありました。そのストレスも他人から受けるもの、自ら作り出すものがあるのでしょうか。とはいっても、その症状が出るのは「わたし」の中においてであります。結局は、どちらのストレスにしても、その始まりはそうでも、最終的には「わたし」の中でその結果が現れてきます。 つまり、同じことを体験しても、それを感じる「わたし」によって、体験の中身は人によって異なります。だからこそ、「その人らしさ」がたくさん生まれてきます。だから、人とのお付き合いも楽しくなりますし、刺激になります。「生きること」に飽きが来ないのです。そして、他の個人に、社会に、国に貢献できる人材が誕生していきます。
イエスさまも、ご自分がいなくなる後のことを配慮なさいます。ご自分の話を聞いたであろうたくさんの弟子たちの中で、その受け止め度が異なり、それがあまりにも貧弱だったが故の配慮です。「あなたがたをみなしごにはしておかない」と。
そして、最後の晩餐の席で、聖霊を送ることを約束なさいます。そこまでしても、弟子たちを保護し続けよとなさったのはどうしてでしょうか。まさに、全人類への絶え間ないやさしさと愛情のあふれであるといえます。いつまでも人と関わり、救いの手を差し伸べていこうとなさるイエスさまの基本的な信条がそうさせたのです。その始まりとしての出来事が、弟子たちへの聖霊派遣の約束でした。
ご存知の通り、弟子たちの生き方、信仰がしっかりとしていたとは言い難いものです。どうして聖霊を受けることができたのでしょうか。弟子たちは実に弱い、その上ごく平凡な人たちです。イエスさまが捕らえられた時は、逃げ回るほどの臆病な、卑怯な人たちです。
彼らの醜さ弱さは、イエスさまにとって、周知の事実であって、それがゆえに、救おうと手を差し伸べられるのです。イエスさまにふれるために、弟子たちの弱さは何の妨げにもなりません。なんといっても、弟子たちは自分の闇の中で、ゆるしを求め、回心し、救いを求めていたのです。
聖霊を受ける心構えを整え、それを学びとることは、現代のわたしたち一人ひとり、教会の発展、育ちのためにとても重大な課題であるといえます。課題とはいっても、「整える」ための内容は何かといえば、「救いに飢え渇く祈りのこころ」がありますか、ということでしょう。
つまり、謙虚さがあるところに聖霊はいかんなく働かれ、生き生きとした命が躍動し、逆に、おごりがあるところには、命が生きのびていけない窮屈さがあります。健全な心身が宿らないということでしょうか。 「みなしごにはしておかない」とイエスさまがおっしゃるからには、その招きに応える「謙虚さ」をこれからも大事にしていきましょう。
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