四旬節第5主日(A年)の説教=ヨハネ11・1~45
2011年4月10日
いつまで続くのか、大地震の影響は、・・・。
これを考えますと、気が遠くなります。地震が引き金になって、いろいろな災害が起こり、人が生きようとする力を打ち砕いてしまいます。
被災された方々の気持ちと同じくはなれませんが、感じることはできます。あの何秒かの間に、すべてが変わってしまいました。日本中が騒然としました。実際にはないその音が聞こえているような気がしました。例えはよくないかもしれませんが、テレビを通してみる津波の映像は、まるで映画のセットを見ているかのようでした。
自然界の力の前では、人間のしていること、したことはなんと小さいことかと、よくよくわかってはいても、それでも追い討ちをかけられる思いでした。
時がたっても、震災の影響は広がり、深刻さを増しています。人が悲しいとき、苦しんでいるとき、それはどのような意味があるのでしょうか。しかも、自分にとって身近な人がそのような状況におかれているときは、考え込んでしまいます。
今日の福音の中では、「ラザロのよみがえり」の奇跡が紹介されています。
ラザロはイエスさまと親しい友人関係にありましたが、「ラザロ病気」の報を受けても、すぐに駆けつけようとはしません。一般の友人が取る行動と違います。その上、不可解なことを言うだけです。ラザロが亡くなって4日目に、やっと重い腰を上げて、ラザロの元にいきます。
そこで、今度はマルタの叫びを受けるのです。それに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。このことを信じるか」とマルタに迫ります。ここが、今日の福音の中心です。この言葉によって、イエスさまは、ご自分の人生のありようを宣言なさっているのです。「友のために自分の命を捨てる」愛の生き方をお見せになります。
復活祭を前に、洗礼式に向けた典礼があります。洗礼を受けるということは、イエスさまのこうした愛の生き方を引き受けるということです。イエスさまの「人生劇場」を、わたしの人生の中で再現することです。
マルタと同じように、心からの必死な叫びをあげつつ、そのための力と恵みを、復活祭に一人ひとりのために祈りましょう。
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