年間第19主日(A年)の説教=マタイ14.22~33
2011年8月7日
ものごとには表と裏がつきものです。両方とも表ということはありません。それはまた、互いの関係性をも語っていると思います。その関係性の中で、互いの存在が証明されているからです。したがって、両方とも互いのために必要な存在であるといえます。
人間においても同じようなことがいえます。つまり、人間の強い面と弱い面を、誰もが持ち合わせております。両方とも「いいもの」です。強い面がよくて、弱い面が悪いということはありません。昔の通信簿には「長所・短所」を書き込む欄がありました。「長所」の欄には何も書かず、「短所」の欄にはいつも「短気」と書いたものでした。
しかし、後になって決して「短気」が短所でないことがわかりました。相手の気持ち、行動を察知する上で大きな力になっていることがわかったからです。今でもそう思っています。つまり、人間がその身に備えているもので悪いものはないということです。神はそのように人間をお造りになっているということです。したがって、人はそのものをさらによいものにしていく必要があるのでしょうが、混乱してしまうと、力をなさなくなります。それが今日の福音でしょうか。
ペトロや他の弟子たちは、イエスさまのおそば近くで、他の人たちよりもしっかりとイエスさまの人格のすばらしさにふれ、奇跡を行う力強さを体験してきました。そうした恵まれた体験も、あらしの前では力をなさないのです。
日常、神のすばらしい力づよさを体験しても、だからといって自分の弱さやもろさから卒業することにはなりません。いくら信仰をもっていても、迷いやすさ、傷つきやすさは、人である限りいつもついてまわるものです。
信仰者の生きざまは、こうした現実をしっかりと受け止め、その中に神の働きを見つめて自分をかけていくことです。言うはやすいのですが、そう生き抜くことは徐々にしかできません。徐々にしかできないので、根づきも確実なのではないでしょうか。
弟子たちもそれこそ、失敗を繰り返しながらも、最期はイエスさまのためにその命をささげるまでにいたったのでした。わたしたちも、どろどろした人生ながらも、迷いをかんじる生き方の中で成長していきましょう。
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