『年間第20主日』の聖書と説教はこちら

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2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第20主日:イエス時代の律法主義と現代の制度中心主義は似てる?

規則は社会においては大事です。でも、その中で生きているのは、あくまでも「人」です。何もかも一緒くたにして、「人」を追い込み、締め上げてしまうのもどうでしょうか。! 他者を「わたし」自身の内側にある「法律」で裁いていないでしょうか?
日曜日の聖書

年間第20主日:異邦人の女は「小犬も食卓から落ちるパン屑はいただきます」と訴えた

年間第20主日(A年)の福音=マタイ15・21~28〔そのとき、〕イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
日曜日の聖書

年間第19主日:イエスは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言った

年間第19主日(A年)の福音(マタイ14・22~33)それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。
日曜日の聖書

年間第18主日:すべての人が食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると…

年間第18主日(A年)の聖書=マタイ14・13~21 イエスは〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を迫った。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

復活の主日:キリスト者の信仰の出発点は歴史的事実の中に

キリスト者であるためには、十字架と復活の出来事が生きていく上において、「わたし」に意味を持ったものとして受け止められるときに、キリスト者として誕生するといえるのではないでしょうか。
日曜日の聖書

受難の主日:百人隊長や見張りの人たちは「本当に、この人は神の子だった」と言った

受難の主日/枝の主日(A年)の聖書=マタイ27・11~54 イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

四旬節第3主日:「主よ、渇くことがないように…その水をください。」

人との出会い、交わりは、本来的には真の変化を成長をもたらしてくれます。直の交わりを省略しがちなデジタル化の時代になってもアナログ的感覚を大事にしたいですね。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

四旬節第2主日:わたしたちの人生は、その実、神に「与えられた」道

イエスは「与えられた」道を歩んだ最たる方です。イエスを聞き続けましょう。主の変容は、イエスが神の子であることを明らかにするだけでなく、山を下りて宣教という日常へ戻ってゆく弟子たちを励ますための出来事でもありました。わたしたちの人生は、「わたし」のもでありながら、その実、神に「与えられた」道です。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第5主日:神の恵み・聖霊の力に、自らの心を開きましょう

イエスとの関りに生きようとして集まった人は、すでに「地の塩、世の光」なのです。塩味という役割を担い、世の光となるように、すでにいただいている光を輝かすことによって、初めはおぼつかなくても、徐々に成長していく自らを確認したいですね。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

年間第4主日:人間的な力も求めながら、さらに、神に向かう「わたし」

イエスが言いたいことは、幸いな人とは、前半部(3~6節)が示すように圧迫されて苦しんでいてもへこたれない人のことであり、また後半部(7~10節)が示すように、圧迫の中にあっても平和を作り出す人のことです。
日曜日の聖書

年間第2主日:洗礼者ヨハネはイエスを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」

年間第2主日(A年)の福音=ヨハネ1・29~34 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。
2026年/A年説教=神は罪びとに道を示される

主の洗礼:イエスは”民の一人として”、神への「義」を示された

今日の福音で、「我々にふさわしいことです」という言葉の「我々」とはだれを指すのか。イエスがヨハネのところにやってきたのは、「彼から洗礼を受けるため」であり、人々も同じ理由から集まってきています。イエスも民の一人としてヨハネの前に現れたといえます。
日曜日の聖書

洗礼者ヨハネの誕生:月が満ちて、ザカリアの妻エリサベトは男の子を産んだ

洗礼者ヨハネの誕生の聖書=ルカ1・57~66、80 月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
日曜日の聖書

年間第2主日:イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行った

年間第2主日(C年)の聖書=ヨハネ2・1~11 〔そのとき、〕ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、
日曜日の聖書

年間第2主日:イエスは彼らに「来なさい。そうすれば分かる」と言われた

年間第2主日(B年)の聖書=ヨハネ1・35~42 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。
日曜日の聖書

主の降誕【クリスマス】今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった

主の降誕の福音=ルカ2・1~14 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニゥスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
日曜日の聖書

ラテラン教会の献堂:わたしの父の家を商売の家としてはならない。

ラテラン教会の献堂(C年)の聖書=ヨハネ2.13~22 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
日曜日の聖書

死者の日:父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることである

死者の日の福音=ヨハネ6・37~40 〔そのとき、〕イエスは人々に言われた。 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

十字架称賛:十字架、それは神の思いを人々に伝えるためのしるし

十字架は罪を認めて見上げたものに命を与える神の愛の現われです。神は、独り子を与えるほどに、この世に対する深い愛を示され、滅びに向かいさばきを免れない「わたしたち」をお見捨てになれなかったのです。
日曜日の聖書

十字架称賛:信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである

十字架称賛(A年)の聖書=ヨハネ3.13~17 〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。