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2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

十字架称賛:十字架、それは神の思いを人々に伝えるためのしるし

十字架は罪を認めて見上げたものに命を与える神の愛の現われです。神は、独り子を与えるほどに、この世に対する深い愛を示され、滅びに向かいさばきを免れない「わたしたち」をお見捨てになれなかったのです。
日曜日の聖書

十字架称賛:信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである

十字架称賛(A年)の聖書=ヨハネ3.13~17 〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
日曜日の聖書

年間第23主日:イエスの弟子の条件は、自分の持ち物を一切捨てること

年間第23主日(C年)の聖書=ルカ14.25~33 〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
日曜日の聖書

年間第22主日:だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

年間第22主日(C年)の聖書=ルカ14・1、7~14 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

年間第20主日:イエスの愛を受け取った「わたし」は、日々をどう生きる?

人々は神から遠くに離れているにもかかわらず、神の側に立っていると信じきっています。自らの思いに自信満々。神に目を向けない人がつくりだす平和はみせかけのもにすぎず、いずれ破綻をきたすのは必定です。
日曜日の聖書

年間第20主日:わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか

年間第20主日(C年)の福音=ルカ12.49~53 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。
日曜日の聖書

聖ペトロ 聖パウロ使徒:「あなたはメシア、生ける神の子です」

聖ペトロ、聖パウロ使徒の聖書=マタイ16・13~19 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
日曜日の聖書

キリストの聖体:すべての人が食べて満腹し、パンの屑が12籠も残った

キリストの聖体(C年)の福音=ルカ9・11b~17 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
日曜日の聖書

三位一体:真理の霊が来てわたしのものを受けて、あなたがたに告げる

三位一体(C年)の福音=ヨハネ16・12~15 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
日曜日の聖書

三位一体:「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」

三位一体(B年)の聖書=マタイ28・16~20 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

復活節第6主日:真の絶対的な平和⇒神の手の中にあるという信仰からくる

イエスは弟子たちとの別れに当たり、一度はどん底の闇に弟子たちを突き落とすものの、新しい希望を与えることを約束されます。それは「平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」といわれます。
日曜日の聖書

主の奉献:両親はイエスを主に献げるため、エルサレムに連れて行った

主の奉献(A年)の聖書=ルカ2・22~40 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はイエスを主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神

主の洗礼:「わたし」の受洗の覚悟は何、それは今どこに、・・・

きょうはイエスの受洗記念の祝日です。受洗する必要はイエスにはないのですが、あえて民衆の中に入っていかれます。救いへの道を民衆とともに歩むためです。「民衆はメシアを待ち望んでいて・・・」で始まるきょうの福音。
日曜日の聖書

聖家族:イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された

聖家族(C年)の聖書=ルカ2・41~52 イエスの両親は過越祭には毎年エルサレムヘ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
日曜日の聖書

主の降誕【クリスマス】今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった

主の降誕の福音=ルカ2・1~14 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニゥスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第33主日:そのとき、選り分けられて「あなたがた」と呼ばれるために

「人々」から「あなたがた」を分けるものは、はたして何なのでしょう。わたしたちは、一人ひとり、それに答えることができているからこそ、今があるのです。  終わりに、人の子から「あなたがた」と呼ばれるために、・・。
日曜日の聖書

年間第25主日:イエスは言われた「すべての人に仕える者になりなさい」

年間第25主日(B年)の聖書=マルコ9・30~37 〔そのとき、イエスと弟子たち〕一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
日曜日の聖書

年間第24主日:自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい

年間第24主日(B年)の聖書=マルコ8・27-35 〔そのとき、〕イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを 何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。
日曜日の聖書

年間第23主日:この方のなさったことは全て素晴らしい!と人々は言った

年間第23主日(B年)の聖書=マルコ7・31~37 〔そのとき、〕イエスはテイルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
日曜日の聖書

年間第22主日:あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている

年間第22主日(B年)の聖書(マルコ7・1~8,14~15,21~23)ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。