『復活の主日』の聖書と説教はこちら

Fr.YASU

2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第5主日:大事なことは塩気を保ち、光を放ち続けることです

自力によってではなく、受洗によってもたらされたキリストの光に照らされ、導かれている事に気づき、受け止めることです。「わたし」の活動に味わいをつけてくださるのはイエスさまだからです。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第5主日:「神の幸福」に与るには自分のみじめさを直視する

自分のみじめさを直視する人にとっては、そこから神に向かう祈りが始まり、神との出会いに到達し、平安と安心を受け取ることができるのです。人びとにとっては幸福なのです。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第4主日:法律によらない「権威」はその人となりが醸し出す

イエスさまの「権威ある教えも」、そうした環境から人々に示されたものでした。そこには、ごまかしとか偽りを見いだせなかったのでした。まったく、人々は感動し、感嘆したのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第3主日:イエスさまの介入により「平凡」から「非凡」になっていく

イエスさまの呼びかけにこたえる弟子たちの姿が描かれています。弟子たちは「通常」、ごく「普通」に生活をしていたのです。漁師として網の手入れをしていました。彼らにとっては普段着の姿です。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第2主日:「わたし」の生きる原理はどこに根ざしているのでしょうか

イエスさまの生きる基になっているのは、ヨハネが指摘した「世の罪を取り除く神の小羊」としての役割なのです。しかも、その「原理」は愛情に満ち溢れています。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第18主日:蓄えるべきはモノ、金、名誉ではない!善行だ

年間第18主日(C年)の説教=ルカ12.13~212013年8月4日  「富は多くの友人をつくるが、貧しい人は友人に見捨てられる」(格言の書19章4節)とか、「金持ちが滑ると助ける人は多く、ばかなことを話しても、人はもっともなことだという。...
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第19主日:何度躓いても、新たな一歩を踏み出す努力が大事

ペトロのことば、「主よ、助けてください」は、葛藤しながらも、不安が、恐れが消えてしまっていないペトロの姿を示しています。それでも、神の方に目を向けようとする努力の繰り返しが大事です。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第19主日:人は弱く脆く迷い傷つき易いが、それもよい!

弟子たちもそれこそ、失敗を繰り返しながらも、最期はイエスさまのためにその命をささげるまでにいたったのでした。わたしたちも、どろどろした人生ながらも、迷いをかんじる生き方の中で成長していきましょう。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第19主日:とんでもない馬鹿げた話を思い巡らすゆとりを

弟子たちは「思いめぐらし」ながら、イエスさまの証人としての成長を遂げていきます。走りっぱなしでは疲れ果てます。急ぎ足ながら、じっくりと歩み続けましょう。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第20主日:平和に対しては「ないものねだり」はしないのでしょうか

育ちの環境の違い、民族の違い等、「違い」が、平和実現の邪魔にはなりえないということでしょうか。むしろ「違い」は豊かさへの出発点のような気がしますが、いかがでしょうか。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第20主日:人に対する嘆きはグチだが、神につぶやけば祈り

イエスさまが期待する信仰者は、純粋に救いに飢えている人です。イエスさまは、叫び続ける母親の中に真実の信仰を見いだし「『婦人よ、あなたの信仰はりっぱだ。あなたの望みどおりになれ』。娘はそのときから治った」と。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第18主日:「自分の力」は他者の力、支援があればこそ威力を発する

イエスさまのみが存在の根拠。その人の欲のおもむくままに行動する時、「独裁者」の存在しか見えてきません。奉仕者の姿ではなくなります。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第18主日:群衆が理解しなかった聖体はカトリック教徒の原点

わたしたちの信仰は、イエスさまの論理的な教えの実践にのみあるのではなく、その中心には聖体に対する信仰があることを忘れてはいけないのです。聖体訪問を勧めます。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第15主日:自分の方から隣人に近づいていくことこそ大事

お互いが「隣人になっていく」ことに、敵も見方も無いよと、今日のイエスさまはおっしゃいます。半死半生の人の隣人になった人が、当時、敵視されていたサマリア人であったことはこのことを指し示しています。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第16主日:忍耐強く待ち、ともに育ち、すべての判断は神に任せる

わたしたちの共同体も、よい人も、いい加減な人もともに育ち、そして、少しずつでも神が望まれるファミリー共同体を、毒麦を抱え込みながら、成長して生きましょう。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第16主日:裁きは神の領域、毒麦の話は人を裁くことの危険性

人を批判するよりも、わたしたち一人ひとりがイエスさまとの出会いができるように祈りあい、また、お互いの弱さや過ちを背負いあっていくことができるのが一番です。毒麦の話は、このことを訴えているようです。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第15主日:種は蒔かれた場所によって育ち方が大きく変わる

イエスさま時代のパレスティナでは耕さずにまず種を蒔いていたので、種自体はみな等しい生命力を持っていたはずですが、蒔かれた土地によって生育に大きな違いが出てきます。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第15主日:イエスさまの福音が実るか無駄になるかは「わたし」次第

仮に、イエスさまのことばが、教えが無駄になったとしても、語ることを決してやめないのが、救い主・イエスさまの姿です。むしろ、止めることができないのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第14主日:任命を受けて発生する権威は「奉仕」するため!

弟子たちも「選ばれた」ことによって権威をいただきましたが、派遣された自分よりも派遣してくださった方にこそ、すべての宣教活動の源泉があるのです。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第14主日:神から無限に「愛されているわたし」の自覚を

イエスさまとおん父との関係が、すべての人に対する自己開示の力と勇気をいただく根拠があります。神の無限の「招待」に対する返事を、これからの生き方の中で見せていきましょう。