『復活の主日』の聖書と説教はこちら

Fr.YASU

2011年/A年説教=神のみことば

年間第23主日:過ちを犯す人にできる限りの手助けをしなさい

一人たりとも滅びの道を歩むことは神の望みではないのです。救うことが神の意向であり、イエスさまの道なのです。周囲の人にもいさめにいくことを求めます。あきらめることなく、さらに働きかけていくべきでしょう。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第23主日:奇跡には豊かなメッセージが含まれている

その見えるしるしが「足の不自由な人が鹿のように跳ねあがった」喜びであると思います。闇に沈む人々に躍動を与えるイエスさまの姿が奇跡のしるしの裏に隠されています。本物を見つめましょう。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第22主日:イエスのペトロに対する叱咤は、愛における価値観の違い

天の父の思いを受け入れて「あなたはメシアです」と告白したペトロは祝福してもらいましたが、人の思いに捕らわれたペトロは「サタン」呼ばわりされます。似た体験は「人間の世界」でもあります。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第22主日:人が協力しあうとき必ず誰彼の自己否定を伴う

愛の生き方には必ず苦しみが伴うということです。それをその生き様で示したのが、イエスさまの歩む道だったのです。それが十字架(神の思い)の道でした。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第22主日:形に囚われすぎるな!内からの清めと癒しを

イエスさまが今日指摘なさるのは、「形があれば十分であるというような錯覚にとりつかれないように」ということです。そうしたことにこだわっていた当時の宗教上の指導者たちを手厳しくおとがめになります。狭い心になっていきやすいからです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第22主日:「生かされている」という謙虚さが平和をもたらす

外見上の見栄ではなく、「自分」がよってもって立っている根拠(神の無償の愛)に気付けばそれだけ、「わたしらしく」それだけ「謙虚に」なっていく自分が見えてきます。誰でも、その瞬間をだれかに生かされ続けていくのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第21主日:「狭い戸口から入るように!」は鍛錬の勧めです

イエスさまとつながっている限り、その業は具体的であり、大きな助けとなっていきます。この確信を深めたいですね。「狭い戸口」は特別困難な入り口ではなくなるのでは、・・・。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第21主日:信仰とは納得できなくても己を委ねきる神への信頼

ペトロは「主よ、だれのところにいきましょう。あなたは永遠の命のことば・・・」と。日常同じような人との付き合いをわたしたちは実践しています。神さまとなるとなぜかぎこちなくなります。なぜ?
2012年/B年説教=主との出会い

年間第20主日:「一つになる」ためには自分から合わせる姿勢が必要

「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはない」(54節)聖体拝領には、イエスさまの十字架、あがないをよく知り、しっかりと受けとめることが求められます。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第13主日:祈りは自己をさらけ出して、膝まづくことから

ヤイロは会堂の司ですから普段は指導者的な活動をしてきたのでしょうが、今日は違います。大事なものへの優先順位があります。地位よりも娘への愛です。命へのこだわりです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第13主日:イエスが弟子たちに要求した「覚悟」とは?

イエスさまのことばに、ご自分の使命への厳粛さとやり遂げようとしているイエスさまの強い思いを感じます。「手をすきにつけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第13主日:苦境の中で謙虚になる時、目覚めさせてもらえる

イエスは「恐れるな、ただ信じよ」と言われます。行き詰まって、思うようにならない状態であると分かると、人は「祈り」ます。愚痴を祈りとしてささげましょう。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第12主日:社会の喧騒から抜け出し、心の燃料補給をしっかりと

バランスのとれた活動と祈り(休憩)こそが、使徒としての、キリストの弟子としての生きざまといえます。いわば「動と静」のバランスです。それにプラス、自己奉献といいますか、自己放棄の心が加わるようにとイエスさまは望まれます。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第11主日:人知れず寄り添い働きかける神に委ねる

「人知れず」神はわたしたちに寄り添い、支え、導いてくださるのです。その神に、あなたは委ねることができますか?返事に躊躇している間も、神は働きかけて下さっています。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第11主日:愛とは自分のすべてをさらけ出し見せること

年間第11主日(C年)の説教=ルカ7.36~8.1~32013年6月16日      人としての生き方はそれぞれです。どの生き方が幸せなのか、その人にしかわからない世界といえます。その生き方によって、その人の「タイプ」が決まるような気がしま...
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第10主日:日常の中で、神の具体的な関与に気づきたい

イエスさまがゆきづまったある母親の心を察して、そのあわれみを示されるのです。人の悲しみ、痛ましい姿を見て見過ごしてはいられないイエスさまのやさしさがうごめきだしたのでした。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第8主日:「天の父は必要なことをご存知である」という謙虚さをもつ

どれだけ努力して、生きることへの工夫をしても、その頑張りに報いるだけの保証が、与えられるわけでもありません。こうした現実を受け入れることも「謙虚さ」です、と言われます。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第7主日:不調の時に神を求める祈りは人間の渇き、普通の姿

神はさりげなくわたしたちを引きよせてくださいます。わたしたち人間に強いることなく、わたしたちを肯定し、高めてくださいます。だから、苦しいときの神頼みも意味が出てきます。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第7主日:平和と秩序の基盤は権利だけでなく、天のおん父の心で

それは、悪いことだとわかっていても、手を染めてしまうわたしたちの現実をご存知の「父」だからこそ、伝わってくる内容であると思います。その極みが十字架の死に至るまでご自分を渡された独り子イエスさまです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第6主日:人の知恵ではなく「神の知恵」に気づくことができれば・・

「法律」は人のためにあるのであって、もっとつき進めれば、人のいのちを守るため、人としてその人らしく生きるためにあるということができます。本来の姿でしょう。法によって人間の品位が落ちるようなことはあり得ないことです。