『受難の主日』の聖書と説教はこちら

Fr.YASU

2014年/A年説教=神のたしかさ

復活節第4主日:神の声を聞き分けることができる時を大事に待ちましょう

イエスさまとマリアの出会いの実りは「マリア」「ラボニ」という応答の中にすべてが包含されています。つまり、マリアはイエスさまの呼びかけを「聞き分ける」ことができたのでした。そして、信じて最期まで従っていったのでした。
2012年/B年説教=主との出会い

復活節第4主日:良い羊飼いとは、私たちと起居をともにするイエスのこと

イエスさまご自身の生き方がまさにこの羊飼いの生き方なのです。ご自分の命を張って人びとの身代わりとなるのです。そして、人びとを安心できるところに案内します。これが救いです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

復活節第4主日:神に大事にされている「自分」を自覚しましょう

イエスさまは、わたしたちに「大事にされている自分」に気付くように促されます。神に大事にされている「自分」です。父と子が一つであるのは、その間にわたしたち「人間」がいるのです。それほどにわたしたちは大事にされているのです。
2012年/B年説教=主との出会い

復活節第3主日:主の復活のメッセージは自分を変えることではなく、変えていただくことです。

わたしたちも自分で自分を変えていこうとしないで、変えていただくという考え方が大事になってくるのではないでしょうか。そこには「不思議なこと」がなくなっていくような気がします。ここに主の復活のメッセージがあります。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

復活節第3主日:再出発にはゆるしを願う前向きな心が大事

ペトロは悲しくなりながらも、答えます。「あなたはすべてをご存知です」と。イエスさまに直接「ごめんなさい」と言えなかったペトロにとって、このことばの中に、イエスさまへの謝罪の心を感じます。そして、ペトロは新たに使徒としての道に招き返されました。新たな「船出」です。
2014年/A年説教=神のたしかさ

復活節第3主日:ミサでパンを裂くとき、イエスさまがそこにおられます

今の日々のミサはどうでしょうか。ミサを捧げるわたしたち一人ひとりが喜んでいるか、希望に輝いているのか、エマオの弟子たちと同じく「悲しげで、暗い」顔をしていないか。二人の目が遮られていたのは、「主の受難と復活」を理解していなかった結果でした。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第1主日:神に背を向けるか神に生きるか、自分の信仰を確かめよう

「人はパンだけで生きるものではない」「「あなたの神である主を試してはいけない」「神なる主を礼拝し、ただ神にだけ仕えねばならない」というイエスさまの回答は、徹底したご自分の心の中を宣言されたものです。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第1主日:イエスは神であり人間のモデル、目指すべき存在者です

イエスはできることならば苦しいこと、辛いことは避けて通りたいという心と態度をとりたくなる存在者であった。それでも、荒れ野での試みには屈することはなかったのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第1主日:まず神の国とそのみ旨を行う生活を求めること

だからと言って、働かなくてもいいということではありません。食べ物を得るためだけの働きではなく、生きる範囲、幅は広いものであるということでしょう。わたしが生きるのは、わたしと、近くでは、わたしの周りにいる人のために役立つことなのです。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第2主日:真の救いはイエスの十字架の死を通してしかありえない

神のなさり方には、人の思いをはるかに超えた思いと動きがあります。わたしたちの日常の苦しみ、辛さも、その先には、平安、楽しさ、安心がまっていることを確信したいものです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第2主日:祈りができないときは祈祷書を使う。神の声に耳を傾ける

日常で、毎日の祈りができない瞬間、時、日があります。学生時代は、そのようなときは祈祷書を使いなさいと言われたものです。日常を述べる、語ることばかりではなく、神に耳を傾けることも大事ではないかということです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第2主日:イエスの問いかけ、矛盾に見えることを受けますか?

イエスは神本来の自分の姿を「捨て」て、わたしたちの人生にご自分の人生をあわせられたのです。そして、弟子たちにその心構えをお示しになったのでした。それは、今のわたしたちに対しても同じことが言えます。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第3主日:絶望的な時であっても、希望をもち続けることが大切

今に生きるわたしたちにとっても、「救われた」「元気をいただいた」等、そのように感じた出会い、人、出来事があることでしょう。それらをしっかりと記憶しておくことでしょうね。それによって、次のステップへと飛躍できます。主よ、今日出会う人と、お互いに高め合うかかわりでありますように、・・・。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第3主日:安らぎは神に!金銭の魔力に求めると「堕落」へ

イエスさまは当時の指導者階級のごまかしに目をつぶっているわけにはいかなかったのです。神への純粋さをなくした世界に、もう一度愛の炎を点じようとなさるのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第3主日:神はそばにいる。不意の不幸にも「信じて生きる」訓練を

神の「沈黙」は何を意味するのか。わたしたち一人ひとりに「回心」のチャンスを与えようとしての恵みの時なのです。パウロは言います。「だれがキリストの愛から、わたしたちを引き離すことができようか」。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第5主日:人の原点は神に愛され、ゆるされ続けていることです

人は人を「罪人」であると判定できません。同じことをしでかす弱さを持ち合わせている人間であるとわかっていても、神はゆるし続けるのです。ゆるされ、愛され続けている「わたし」を実感したいですね。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第5主日:イエスの教えは自己愛の否定で新たな命の息吹を

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば豊かに実を結ぶ」。イエスさまがこの話で伝えたいことは何でしょうか。「自己愛の否定」自分が自分であり続ける限り、新たな命の息吹はありえないのです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第4主日:「名詞」の愛ではなく、動詞で「愛」を実行しましょう

愛は名詞ではなく、動詞なのです。つまり、口先だけでいう名詞の愛ではなく、おなかをすかしているわが子に対して、そっと手渡すコッペパン一つで親の愛が伝わります。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第4主日:「あの過去のせいだ」と、自らの道を塞いではなりません

マイナスイメージだけが膨らんでいく経験がおありでしょうか。「やはりだめだ」ではなく、「また新しいスタートだ」と考えましょう。終わりは神が準備してくれます。自分で作る必要はないのです。神のわざ、はからいに気づくために。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第4主日:小さな破片の中に本当の宝物は潜んでいます

ニコデモは「あのようなしるしは、神がともにおられるのでなければ、だれにもできないからです」という宝物の秘密、ワン・ピース獲得を目指してイエスさまのもとに来た。