年間第8主日(A年)の説教=マタイ6・24~34
2017年2月26日
長い人生でも未体験、知らないことは多い
人生、いかに長く生きたとしても、体験してないこと、知らないことだらけです。「生きてきたキャリアの違いよ」と自分に言い聞かせながら、人生の先輩方の生き方に敬意を表するとともに、参りましたという気持ちにもなります。
特に、新しい何かをはじめるにあたり、その担い手となって頑張ってくれた先輩方があって、今の会社がある、というような状況を考えますと、なおさらです。良好な流れに乗って、すべてが順風満帆に推移しているときは誰も思わなくても、いったん苦境に陥ると、一人ひとりの「人となり」の評価が出てくるものです。
苦境に落ちったときに「人となり」がでてくる
「出端をくじく」「万事窮す」「見る影もない」など、人生の過程で遭遇する事象並びに、その形容の仕方がいくつもあります。自分が意気込んで何かを始めようとしているのを相手に先んじてくじかれることがあり、もはや施すべき方法がなく、もう終わりと諦めざるを得なくなったり、あまりにもみすぼらしくて、影さえ見るに堪えない様子を露呈する羽目に陥ったり、さんざんな状態になることも少なくありません。
つまり、生きていることは、思いわずらいや心配事を抱え込んでしまう日々でもあるかのようになります。たとえ、楽しい充実した日々があったとしても、それが長続きしないのです。
時には、もがけばもがくほど泥沼に陥るということも
思いわずらいと心配事を断ち切りたいと思っていても、それらから逃れたいとあがいても、自分の思うようにコントロールできないのです。もがけばもがくほど、泥沼に落ち込んでしまいます。生きることに希望を無くしたり、明るさが消えていってしまいます。
一人ひとり理由こそ違いますが、思いわずらいが重なり合ってきますと、心身ともに疲弊してしまいます。神経をすり減らして追い詰められ、身体を損なう事態を招いてしまいます。思いわずらいや心配事から得るものは何もありません。むしろ、生きるために大切な明るさ、希望、生きている充実感等が失われていくだけです。
イエスは、思い煩いは無用であると言われる
人のこうした現実を前に、イエスさまは、そのような思いわずらいは「無用」なものであると言われます。「あなた方は『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と思い煩ってはならない。これらはすべて、異邦人が求めるものである」と。さらに付け加えます。「あなた方の誰かが思い煩ったからといって、一刻でも寿命を延ばすことができるだろうか」。
多くの関わりの中で、自分の思うようにならない世界で生きている
結局、わたしたちは皆、自身の健康、仕事はもちろんのこと、他者との人間関係、寿命、その他たくさんのものとのかかわりの中で、自分の思うようにならない世界に身をおいて生きているのです。その中で幸せを享受し、また、自分に関係のないところで他は動いていきます。時には、自分にとって不利な結果をもたらすことだってあります。この現実を受諾していかなくてはいけません。それは、「わたし」の限界であり、人間の限界でもあります。
だからと言って、努力無用というわけではない
だからといって、よく生きようとする努力をしなくてもいいのかというと、そうではないでしょう。大事なのは、その努力がどのような実りをもたらすかは、本人にも誰にもわからないということです。経験でわかっているように、「自分の人生」とは言え、意のままに進み行かないということです。どうしようもない人間の限界です。この「限界」を認めた後に、イエスさまのみことばが素直に「わたし」の中に入ってくるのではないでしょうか。
天のおん父は、背負いきれない現実があることをご存じだ
誰にでも、どのような資産家、立派な地位にある人にも、背負いきれない、自分の力を超える現実があるということです。だから、イエスさまの招きがあります。「天の父は、あなたたちにそれらがみな必要なことを知っておられる」のです。
願わくは、「わたし」の思いとおん父の思いが一つになるように。また、天のおん父への信頼をより深め、「わたし」の人生が明るさと希望、やすらぎに満ちたものでありますように、日々を過ごさせてください。
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