待降節第2主日(A年)の説教=マタイ3.1~12
2010年12月5日
先日、ある会場で予期もしない、ある肩書きのある方と出会い、名刺の交換をすることになってしまいました。「予期しない」ことでしたので、自分の名刺を持って行かなかったこともあり、あわててしまいました。
可能性のある限りの場所を探したところ、免許証と一緒に入っているのを見つけ「ホット」しました。あらためて、いつでも準備態勢を整えていることの大切さを感じました。
名刺を携えることは、自分のちょっとした気遣いでできることですが、他者のために何かを「準備し、整える」ことは、気を使いますし、責任を感じます。
洗礼者ヨハネは「主の道を整える」方でした。どのようにして?・・・。
「悔い改めよ」という言葉でマタイは「どのようにして?」という問いに対して、答えを示しています。
「日本語では『悔い改め』は、『犯した罪や過ちを反省し、まじめに生きる決意をする』という意味になってしまいますが、・・・ヘブライ語で『悔い改め』のもともとの意味は『神に顔を向けなおす』です」と森一弘司教は説明します。続けて「それは、わたしたちすべての人間が神に背を向けて生きているという事実を前提としています」と。
しかも、マタイではヨハネが悔い改めを求めた直接の相手が、伝統や風習に誇りを持つユダヤの人々やイエスさまに敵対するファリサイ派やサドカイ派の人びとであることにも注目する必要があります。これらの人々が「われわれの父はアブラハムだ」と考えているのです。
要するに、「自分たちは他の罪深い人々とは違い、選ばれた民なのだ」という「選民意識」が強烈です。大切なのは「アブラハムの子孫であるか否か」ではなく、「神の思いに沿った歩みを進めているか否か」であると、ヨハネは呼びかけています。しっかりと神の方を向いているかどうかですよ、ということです。
先のユダヤの人々は、神に背を向け続けてきたのです。自分たちの生まれ、育ちに向いている現実から、神の思いへと目を転じることを訴えています。神の思いに応える歩みを進めること、このことを強調するために「よい実を結ばない木はみな、切り倒される」と語っているようです。
洗礼者ヨハネは、当時の人々が、イエスさまを迎えるための準備のために派遣されたのです。彼なりに最善の準備はしたのです。後は、神が語りだすのを待つだけです。その語りかけが「主のご降誕」でした。ヨハネは準備以上のことはできませんでした。どのような神の語りかけがあるのかも予期しえなかったのです。日ごろからの準備を怠ることなく、予期できないことに備えることが今日の訴えでしょうか。
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