年間第30主日(A年)の説教=マタイ22.34~40
2011年10月23日
一般に言われていることは、「愛」という言葉は明治時代にキリスト教文化といっしょに、日本に入ってきたのではないかということです。真偽のほどはどうであれ、日本人に親しみやすい表現であるかどうかは、わたしにとりまして、はなはだ疑問であります。
といいますのは、書き言葉、演劇用語等としては使われていても、日常のわたしたちの生活の中に入り込んでいるかな、と考えてしまいます。「好き」という表現はよく耳にしたり、口にしたりします。が、「愛」という表現はどうでしょう。特に男性諸氏にいたっては、・・・。
それでも、確かにいえますことは、愛は強制されるものではないということでしょう。愛はその人の心の奥から出てくるもので、その人の自発的、自由な言動です。それなのに、聖書では「愛」はもっともたいせつな掟として紹介されます。イエスさまも「律法の中でどの掟がいちばんたいせつですか」という質問に、「心をつくし魂をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい」(マタイ22章36節~37節)と答えています。
この言葉は、旧約聖書の申命記6章の5節にあります。
ユダヤ人なら、誰でもが知っている内容です。さらに、神を愛することがなぜおきてなのかが説明されています。いわゆる、ファラオの奴隷であった彼らイスラエルの民が、神の力強いおん手で、エジプトから導き出されたという事実が示されています。
日本的にいうならば、神をたいせつにするということでしょうか。その根拠は、神から受けた「恩義」なのです。イスラエルの人々の生活のすべてが、神からの恵みであるということです。この歴史上のできごとをしっかりと受け止めるならば、神を大切にしなければいけないという結論が出てくるのではないでしょうか。
外圧によって強制されるのではなく、おのずとわきおこってくる心情であると思います。だって、神はイスラエルの民にとって、大恩人なのです。このことを思い起こすための「おきて」が一番大切なものとして位置づけられているのです。だから、神を愛する「義理と人情」がわきあがるのです。
新約になると、イエスさまの十字架のあがないという普遍的な犠牲によって、神と人との関係が生まれます。わたしの存在が自分の力ではなく、おん子を十字架に渡された神の恩恵によるのです。つまり、生かされている自分があるのです。このことを自覚するところに、神を愛する源泉があるのではないでしょうか。
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