王であるキリスト(A年)の説教=マタイ25.31~46
2011年11月20日
わたしたち人間が五感を持ち合わせている限り、この感覚に訴えるものには刺激を感じます。そして、その刺激は時として心地よく、また、時としては苦いものになることもあります。例えば、ある人が支持されるにしても、されないにしても、五感で感じられることは、客観的に(?)その人を見極めるために大いに参考になります。そうしたことは、社会のいたるところでなされていることでもあります。これが、人間の常識的な価値基準です。
最近のできごとに、秋の文化勲章授与式があります。その対象となるのは、客観的に社会に貢献した方、それが自分の好きな分野での研究の結果であっても、そうした方が選ばれるのは通常であります。社会的業績、貢献度だけで人を判断してしまうと、その中に入ってこない人があまりにも多すぎるのではないでしょうか。
貢献度は小さくても要になるお仕事をしてくれる人はたくさんいます。目立たないけど、いなくてはならない人、そのような人こそ、人の人生を豊かにしてくれるのではないでしょうか。
つまり、その人の存在そのものが、誰かの大きな役に立っているのです。だからこそ、わたしたちはずば抜けた能力がなかったとしても、生きる理由、存在する価値があるのです。
その底流に流れているのは「愛」であるとイエスさまは話されます。つまり、神に表彰される(救い)基準は、人間の常識を超えたところ、愛の業を生きたかどうかにあると言われます。
愛は、人間であれば例外なく一人ひとりの心から出てくるもので、どんな人にも可能です。才能、能力、学歴などと何ら関係はありません。また、その愛が大きく目立つものでなくてはいけない、ということもないのです。ごく卑近な行を、ごく普通に、行うことでいいのです。「あなたが施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知らせるな」(マタイ6章3節)と、イエスさまが諭されているとおりです。
別の言い方をしますと、ごく日常出会う人を通して、イエスさまに出会っているのです。今日の福音にあるとおり、隣人の姿はイエスさまの姿なのです。隣人にするわたしたちの行いはすべて、イエスさまに向けられたものであるといえます。ここに、人の生きる深さと神秘があります。
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