年間第23主日(C年)の説教=ルカ14.25~33
2013年9月8日
人生を送るにあたって、一つの道を極めるということは、誰にでも容易にできることではないように思います。「極める」ことはできなくても、同じ一つの道を保ち、歩み続けることはできます。その軌跡を見て、まっすぐか曲がっているか、楽しかったか辛かったかの判断はできそうです。
その人生を振り返ってみて、脳裏をかすめるのが「辛かったこと、苦しかったこと」がまず第一でしょうか。しかし、それらがあったからこそ、今の充実した楽しい生活が営まれているともいえないでしょうか。わたしたちの人生の途上で出会う人、ことがら、事件等、否定的な現象ではないかと見えたとしても、この「わたし」にとって無駄なことはないということになりそうです。
大事なことは、あるがままの自分、相手を見、受け入れていくことでしょうか。わたしたちはどこかで、相手を自分の眼鏡を通して、自分サイドに引き込んでしまっていないでしょうか。その眼鏡に合わないときに不平、不満が噴出してくるのです。
今日の福音では、イエスさまは「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも憎め」とかなり厳しいことを弟子たちに要求されます。「憎む」ということは、「捨てる」ことを意味します。何を捨てなさいというのでしょうか。
こんなに厳しい内容と表現をとったイエスさまの真意はどこにあったのでしょうか。当時、イエスさまの評判は良く、広く知れ渡り、多くの人に支持されていました。その上、そのうわさを聞いたたくさんの人びとがイエスさまに近づいてきたのです。
現代でも、有名人になれば一目見たいという好奇心がわいてくるものです。この「好奇心」の陰に横たわっていた人々の現世的利益と幸福を願う思いを、イエスさまは徹底的に崩してしまおうとされたのでしょう。その証拠に、自分たちの望みをかなえてくれなかったイエスさまの十字架のもとには、人びとはいなかったのでした。
イエスさまがいいたいことは、生きるための価値をどこに見いだすかということでしょう。親、家族、親戚等、どれも生きるために大事なものです。自分の都合に合わせて、他者を動かしていませんか。自分の眼鏡に合わせようとしていませんか。そのようなもの、動きを「捨てなさい」といわれるのです。
イエスさまは生きる最高の価値を「神」に置くのです。
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