
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
復活節第3主日(A年)の説教=ルカ24・13~35
2023年4月23日
毎年思うことなんですが、復活祭を迎えるこの時期は、自然界が冬ごもりから一斉に目覚める華やかな明るい、満開の花を咲かせる賑やかな季節です。復活祭と自然界の目覚め(復活)、何となく何かのメッセージを感じてしまいます。その中身については、人それぞれの中に感じられる思いに違いがあって当然でしょう。それにしても、いろんな意味でいい季節です。
新聞の投書欄に、ある高校生からの投稿を見つけました。(讀賣新聞西部版2026年4月14日朝刊)
この投稿を読んで思いました。人は自分でも気づいていない自らの能力は、普段の生きている場でこそ、その芽を出し、育っていくものである、と。「子どもの能力は無限です」と、よく言われますが、そのようになるかならないかは、子育て、子どもの育ちの過程の中で受ける、周りの大人からの影響の如何に関係してくるのではないかと、・・。子どもは確かに未熟です。でもその「未熟さ」こそが「可能性」であり、子どもたちが世界に貢献できる最大の強みです。何にも染まっていない柔らかな心と、何物にも縛られないパワフルさ。これらは、彼らが可能性の塊であることの証明ではないでしょうか。
イエスのいないエルサレムは、すでに魅力のない場所になったのでしょうか、弟子たちにとっては、実に悲しげな思い、心で日々を過ごすことになりました。中には、エルサレムをあきらめてエマオに向かう二人の弟子の姿がありました。きょうの福音書はその場面を描いています。この二人の弟子も、イエスを失った落胆の心を隠せません。エマオへの道を肩を落として歩いていました。
彼らもイエスに出会い、その説教にひかれ、その人となりに魅力を感じつつ、その力にあふれた奇跡にあこがれ、その人生をかけてきたつもりだったのです。だからこそ、イエスが闇の力におしつぶされ、人の苦しみと死を取り除くどころではなくなった今、弟子たちの期待は裏切られ、希望は打ち砕かれたのです。イエスに対する弟子たちの望みが大きかっただけに、イエスが奪われたことは、悲しみも絶望も深かったのです。
彼らがイエスを力ある預言者、メシアとして期待したのは間違いではありませんでした。しかし、彼らが誤ったのは、十字架にかけられて死んだはずのイエスが「生きている」と知らされた後の行動でした。墓に行った婦人たちは、空になった墓の前で天使に出会い、「イエスは生きている」と告げられたというのです。それを聞いた弟子たちが墓に出かけてみると、墓は婦人たちの言葉通りだったのです。

さて、エマオに向かう二人の弟子たちにイエスは近づき、ともに歩き出します。しかし、二人の弟子の目は遮られてイエスであると確認できません。そして、「ナザレのイエス」についてイエスご自身に語り続けます。弟子の話しに黙って耳を傾けていたイエスは、語り聞かせます。
「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」遮られていた二人の目は、ともに食卓についてパンを裂いたときに「開かれ」復活したイエスを知ることになりました。
イエスに会えるのは「墓」ではありません。神が語る言葉に耳を傾け、裂かれたパンをともに食するときです。
弟子たちは長い間イエスと共に生活しながらも、人間的な尺度、人間的な常識を持つことしかできなかったのです。今のわたしたちはどうでしょうか。イエスがトマスに言われた「見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉の意味は、「わたし」の中でどのように生きているのでしょうか。「信じる」ということにとって、見たかどうかは大事なことではありません。見ても信じないことはあります。むしろ、「聞く」ことが大切なのです。何を聞くのかといえば神の言葉であり、宣教の言葉です。
それは生きる現場で展開されていきます。ミサの秘跡は、まさにイエスが残してくれた「わたし」への「出会い」の場であるといえます。また、その恵みを分けあう行為の中にイエスと出会う場があるというのです。だから、キリストを信じるわたしたちは今日も集まるのです。そして、交わり、分かち合います。
あの幼子の目に見えない能力が芽を出し、花開いていくように、わたしたちの目に見えない信仰も、徐々に育ち、大きく羽ばたく時がやってくるように、希望し、前に進めて生きましょう。
生きているイエスに出会う「場所」は墓ではなかったのです。
普段のわたしたちの生活現場なのです。


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