
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
四旬節第4主日(A年)の説教=ヨハネ9・1~41
2026年3月15日
わたしたちは普段の生活の中でどれだけの人たちとの出会いがあるでしょうか。特に意識したこともなく、気に留めてもいませんよね(?)でも、それだけ、たくさんの方々にお世話になっていることは確かです。
最近、特に感じることがあります。「人は一人で生きてはいけない」とはわかっているのに、そのことが頭の中だけでわかり、「人」として心の奥に感じていない人が多くなったのではないかということです。どういうことかといえば、その方の普段の生き方のなかで、その言動に現れてこないということです。さらに言うならば、その言葉使い、表現・表情、仕草、振る舞い方に現れてくるものではないんでしょうか。仮に表れたとしても、その場を取り繕うための手段の一つになっているようで、なんとも言えない空しさを覚えてしまいます。時には怒りたくなりますね。ある問題が提起されても、その問題を避けて、逃げてしまっているような気がしてくるからです。若い人になればなるだけ、課題の核心の傍を通り抜けて、真っ向から立ち向かおうとしない姿がなんとも情けない。
イエスは目の前の課題・人から逃げるどころか、むしろ、人を探し出してでも取り組もうとなさいます。それも、相手のペースに合わせて、どこまでも辛抱強くその人を大事になさいます。わたしたちは得てして、相手の人を選んだり、面倒くさい、手間がかかる人は後回しにしてしまいます。まったくもって、イエスの考え、振る舞いと真反対の言動に出てしまうことが多いのではないでしょうか。
今日の福音書では、まさに、そうしたイエスの言動が描かれています。
「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」(ヨハネ9・1~5)
イエスは目の不自由な人を見て足を止められたのでしょうか、弟子たちから尋ねられます。弟子たちは、当時の常識で「罪」をとらえ、イエスに質問します。それが上に記した箇所です。そして、当時のイスラエル社会の時代背景も、きょうの話に影響しています。
その背景というのは、当時「キリスト教徒はユダヤ教の会堂から完全追放」という規定が実施されるようになり、キリスト者は異端とされ、キリスト者とユダヤ教徒の対立が激しくなっていました。

その中で、ファリサイ派の人々は安息日規定に関する知識に基づいて、安息日に癒しを行ったイエスは罪びとであり、どこから来た人物かわからないと断定します。知識や常識にこだわる彼らの目には、神のサインが見えていないのです。神の「しるし」は隠されてしまうのです。
これに対して、癒された盲人は見えなかった目が見えるようになった今、イエスは神から来た方だと主張します。明らかに、癒された盲人の中で、イエスの見方が変わっていきます。つまり、イエスをはじめは「あの方」(15節)と呼んでいたのが、次に「預言者」(17節)さらに「神のもとから来た方」(33節)と呼び、ついには「主よ」(38節)とひざまずいて告白します。
聖書には、イエスと目の不自由な人との出会いが、この箇所以外にも描かれています。どの話にしても、こうした人々とイエスの出会いには、健康な人々とイエスの出会いには見られない、はりつめた真剣さがあります。彼らは必死にイエスに訴えかけています。他にも、健常者には見られない真剣さ、迫力が感じられます。次の通りです。
「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。」しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。」(マタイ9章27~31節)
イエスはその謎を今日の話を通して示そうとされているようです。目が不自由であるということは、生きるために何かと不便です。今自分がいる世界の様子が全く分かりません。それだけに不安な日々を強いられています。確かな歩みすらできません。大きな困難をかかえた日々です。常に神経をはりつめて、緊張し、安定しない中におかれたままに過ごさなければなりません。だからこそ、人生にたいへん大きな重い十字架です。
その上に、癒された盲人は、ファリサイ派の人々に尋問された挙句に会堂から追い出されます。そして、そのことを知らされたイエスは彼と出会います。ファリサイ派の迫害を受けたのちにイエスと出会った癒された盲人。その出会いは、ユダヤ教からの迫害が激しさを増す中で、イエスを「主なるキリスト」と告白し続けるようにと、信じる人々を励ましているのです。迫害はイエスとのかかわりが吟味されるときだからです。
健康な目に恵まれなかったという現実があるとして、だからこそ、自分の弱さ、もろさ、限界が見えていたのではないでしょうか。だからこそ、真の生命に飢えていたのではないでしょうか。だから、健康な人々とイエスの出会いには見られない、真剣さがあります。彼らは必死にイエスに訴えかけています。迫力が感じられます。
神の恵みは、自分の闇に気づく「目」を養い、自分の弱さのうちに開花します。(Ⅱコリント12章9節参照)


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