
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
主の洗礼(A年)の説教=マタイ3・13~17
2026年1月11日
わたしたち一人ひとりは、顔かたちが違うように、その感じ方、理解の仕方、表現の仕方、話し方並びにその話に使う言葉選びの癖等、その人独特の個性があります。そのお陰である人は励まされますが、また他の人は傷ついてしまうことがあり得ます。その方の相手の人も、それぞれに個性をお持ちだし、同じ言葉、表現に真逆の反応を当然のように示す場合があります。だからこそ、長い付き合いを通してお互いを理解し合い、受け止め合っていくこと、そのことが、人間だからこそできる尊い業ではないのでしょうか。
南日本新聞の報道部の記者が書いています。(南日本新聞2026年1月3日朝刊)
「『コンビニみたいなもの。いつでも来ていいよ』。夜の警察署で当番責任者から言われた言葉が心に残っている。少年事件を担当するある警察官は『何かあったらいつでも駆けつける。道を踏み外さないよう向き合うのが自分たちの役割』と話した。地域を支える覚悟がにじんでいた。
事件・事故担当の記者になり9カ月たった。取材で署を訪れると、助けを求める県民の姿を目にする。外国人や学生がいるときもある。親身な警察官の姿を見ると、頼りにされる組織なのだと感じる。だからこそ、不祥事の公表に消極的な姿勢には残念な思いが募った。昨年10月、他人の尻などを撮影した巡査部長の懲戒処分が取材で発覚した。私的な行為であるとして、県警は当初、発表していなかった。その後も巡査長が下着を撮影した不祥事が明らかになった。捜査は適正か、処分は甘くないか。県議会でも疑問の声が上がった。
第三者が内情を確かめるのは難しく、組織の自浄力にかかっている。12月の県議会で岩瀬聡本部長は処分の発表方法について『より積極的な判断を検討する』と述べた。県警は今年の運営指針に『県民の期待に応える警察活動』を掲げている。不都合なことも全て公にする姿勢こそ、信頼を得る第一歩になる」
この記事もまた、人間だからこそできる、しかし、その「負」の部分が浮き彫りになっています。人間には「自由」が与えられています。いわゆる、「善をなすか、悪をなすか」それを選択する自由があります。と言いましても、本来の「選択権」は、よいもの同士、美しいもの同士の中から、よりよいもの、より美しいものを選択する、というような使い方をするのではないかと思いますが、・・。
「つい魔がさして・・・、しでかしてしまいました」と、自らの非を認める人がいます。確かに、自分でも何が何だか分からないうちに事をなしてしまうことってありますよね。それが他者から非難されるようなことがないとも言えない時、事もあるようです。
なんとも、人間って複雑な存在者だなと思うのです。基本的には、わたしたちは「人」としての品位を保ち続けるために、いつも良いもの、よりよいことを選択するように仕向けられています。ところが、現実では、その逆の方に魅かれてしまうことが多いのが通常の姿ではないでしょうか。そちらの方が魅力的に見えるんですよね。それが誘惑なのでしょうが、・・・。

きょうは主の洗礼の祝日です。イエスが民衆の前に現れる以前に、洗礼者ヨハネが登場し、「天の国は近づいた」と声をあげ、人々に回心を求めました。そして、ヨハネのもとに集まってくる民衆に交じって、イエスもガリラヤからやってきます。そこで、イエスはヨハネから洗礼を受けようとします。ところがヨハネは、イエスを思いとどまらせようとします。イエスこそ彼の後から来て、聖霊と火による洗礼を授ける方だと知っていたからです。しかしイエスは「今は止めないでほしい」と言って洗礼を望みます。罪のないイエスは、回心の洗礼を受ける必要はないはずです。そこでヨハネはしがみつきます。そして告白します。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに・・・」と。
このヨハネの告白に対して天からお告げがあります。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」
きょうは主の洗礼の祝日です。したがって、きょうの福音の中心は、ヨハネとイエスの洗礼に関する押し問答のやり取りにあります。
この中で、「我々にふさわしいことです」という言葉の「我々」とはだれを指すのかということです。イエスがヨハネのところにやってきたのは、「彼から洗礼を受けるため」であり、人々も同じ理由から集まってきています。イエスも民の一人としてヨハネの前に現れたといえます。イエスは「聖霊と火で洗礼を授ける」特別な存在ですが、そのイエスが「今は」人々と同じように洗礼を授けてほしいと願い出ています。つまり、イエスは人が神に対して取るべき態度、「義」を自ら示しています。
預言者の時代が終わりを告げる「今」は、ヨハネから洗礼を受けることこそ、神が人に望むことです。イエスが洗礼を受けたことを境にして、神の「愛する子」の時代が始まろうとしています。
人間だからこそできる最高の姿を、イエスは示しておられるのです。
ここに、イエス受洗のメッセージがあるのではないでしょうか、・・・。


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