
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
王であるキリスト(C年)の説教=ルカ23・35~43
2025年11月23日
人には、それぞれ一人ひとりに託された役割があります。それも、それぞれが異なっています。それに本人が気づくまでには、人にもよりますが、簡単ではなく、かなりの時間を要する場合もあります。その間、いろいろなもの、人に邪魔されながら、時には遮られながらも、でも、必ずその役割にたどり着くものです。
そして、その役割は、そのほとんどが「他者」のためになるものです。そして、結果として、その恩典が自分にも戻ってきます。「情けは人の為ならず」ですよね。すなわち、「情けは他人の為だけではない、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にせよ」という意味でしょう。しかし、言葉も生きています。最近では違った意味に解する人が多くなったといいます。
というような説明があります。さらに、
わたしが日頃から思っていることは、人それぞれが持っている能力は、人(他者)のために生かすことによってこそ、その価値が膨らんでいくものだということです。自分のためだけに生かしても、充足感、嬉々とした満足感は味わえないからです。相手の方が喜んでくれることを通して、自己評価が高められていきます。さらに、もっと持ち前の能力を膨らませ、前進しようとの思いに駆られていくのではないでしょうか。

きょうの福音は、俗にいう「天国どろぼう」の話です。最後の最後まで、イエスはご自分の役割に忠実でした。自分にしかできないことをしっかりと果たされ、その生涯で目指してきた自分だからこそできる役割を完成させました。それは「罪人を取り戻すこと」でした。十字架にかかったままで、メッセージを語ります。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。
十字架上のイエスを最初にあざ笑うのは議員たちです。彼らの言葉「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」を直訳すると「もし彼がメシアなら、彼は彼自身を救え」となるようです。彼らの目のまえにいるイエスに三人称で語りかけているのです。イエスがもう何の価値もない存在者であるという、いわば、侮辱を浴びせていると言えるでしょう。
イエスはその短い生涯の中で、自分に反対する者が、いつもその周りを取り巻いていたのです。特に、当時の指導者階級にあった人々です。それが、死を目前にしたこの時に至っても、イエスの周りには反対する者、侮辱する者等が取り巻いているのです。前述した議員たちにして然り、「酸いブド―酒」をイエスに差し出した兵士たち、当時一般民衆の安物の酒を差し出すことによってユダヤ人の王・イエスを侮辱しています。さらに、イエスのすぐそばで十字架にかけられた犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言ってイエスをののしります。
彼ら全員が言いたいことは、メシアなら十字架から降りてこい、ということでしょう。彼らにとって、イエスが十字架にかかりっぱなしであることは、イエスがメシアではない証拠なのです。つまり、十字架は、彼らにとってはイエスが「選ばれた者=メシア」ではない何よりの徴であったのです。
ところが、イエスのすぐそばには、そう感じていない人がいたのも事実です。イエスと同じく十字架にかけられていたもう一人の犯罪人でした。彼はイエスをののしった仲間の犯罪人に「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言ってたしなめたのです。その彼は、イエスがその宣教活動の最中に出会った多くの罪人、酒飲み、取税人、遊女と呼ばれ、貧しくへりくだりながらイエスの愛につつまれることのできた人々に匹敵します。
彼にとって十字架上のイエスは、罪びとともに生きるメシアです。そこで彼は言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。ですから、十字架から降りられないイエスではなく、降りないことがメシアの証しになっているのです。
イエスは自分に託された役割を、息を引き取る瞬間まで果たされました。イエスにしかできない、だからこそできる役割は「罪人を見つけ、取り戻す」こと、回心させることでした。
さあ、この景色を見ている民衆、わたしたちはどちらの選択をするでしょうか。


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