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年間第27主日:人には神の恵みが必要!だから叫ぶ「信仰を増してください」

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年間第27主日(C年)の説教⇒2025/10/5

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

年間第27主日(C年)の説教=ルカ17・5~10

2025年10月5日

人は、自らを鼓舞し、他者を励ますときに「自分を信じて」とか「自信をもって」とか言います。でも、具体的にどのようなことを意味しているのかよくわかっているのでしょうか。ただ「あいさつ」的に言っているだけでしょうか。それだけでもないようですよね。

「自分を信じるとは、『自分の価値観や判断基準などを、確かなものとして自分自身が受け入れていること』。簡単に言うと、『好き嫌い』や自分にとっての『良し悪し』を自分で判断できていて、『それでいいや』と思えていることです。自分にとってこれは大事なこと。自分にとってこれは譲れないこと。それを『そうである』と疑うことなく確信が持てている“感覚”です」(Ogg.jp キャリアコーチ菊池さん)

一般に言う「自信家」でもあるのかなと言いたくもなりますが、・・・。でも、自己確信が持てている人は、自分と他者とは違うな、ということもしっかりと認識できていて、受け止めている人でもあるのかなとも思います。自分自身のことが分かっているので、自分の限界をもしっかりと受け入れているといえます。ということは、相手の存在をきちんと評価もできる人でしょう。

わたしたちは、日常の生活の中でいろいろな人たちとの出会いがあります。自分にとって比較的好ましい人であったり、その逆の人だったり、また、ある人には大いに助けてもらったり、逆に助けたり、とその関係はさまざまです。しかし、いつも「人」と」人」との関係です。したがってその間には優劣関係は生じません。絶えず励まし合えるし、赦しあうことが出来ます。

年間第27主日:しもべが主人に命じられたことを果たす。これは当然のこと
年間第27主日(C年)の聖書=ルカ17・5~10 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木 に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ところが、それが神と人との関係になるとそういうわけにはいきません。きょうの福音は次のような言葉で始まっています。

「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、・・・」とイエスに願ったのです。その理由は書かれていません。この直前で、イエスは罪を犯した仲間をゆるしてあげるようにと教えています。その原動力として信仰を求めたのかもしれません。イエスはその問いに対して「からし種」の話をなさいます。「からし種」一粒ほどの信仰があれば、桑の木を従わせることもできると答えたのです。

弟子たちの願いに対するイエスの答えに、なんともぴんと来ないものを感じてしまいました。というのは、「信仰を増してください」という願いに、直接的な答えになっていないような気がしたからです。この箇所の直前にある話は、罪の赦しに関する話です。

「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17章3~4節)と。

先にも記したように、弟子たちはゆるすためにはその原動力として「信仰の力」を求めたのかもしれませんが、彼らとしては「自分たちは信仰を持っている」と自負していたのかもしれません。それが本物であったのかどうか、・・。

パウロが言っているように、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(Ⅰコリントの信徒への手紙13章2∼3節)

信仰には愛と結びついていることが大事なのだということでしょう。そこで「愛に満ちた真の信仰」を伝えるために次のたとえ話しをなさいます。

「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかするしもべがいる場合、そのしもべが畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人はしもべに感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りないしもべです。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と。

イエスは主人としもべの関係を通して、神とわたしたちとの関係を説明しようとされています。しもべが主人と同等の扱いを受ける資格はないのです。全く次元の異なった存在であったのです。しもべはあくまでも主人の「もの」であって、主人に尽くすことだけが求められていました。もし、そういうことがゆるされるとしたら、主人の方からの恵みでした。しもべの努力によって勝ち取った権利ではないのです。それはあくまでも恵みなのです。

つまり、主人としもべの関係がそうであるように、わたしたちと神との間には無限の隔たりがあります。神は無限です。わたしたちは有限です。神は絶対です。わたしたちはもろすぎます。神は愛です。わたしたちはエゴイストです。神は万物の創造者であり、わたしたちは被造物です。このように、神とわたしたちとの間には本質的な差があります。わたしたち人間がいかなる努力を重ねたところで神と交わる資格や権利を得ることは出来ないのです。

だからこそ、弟子たちは恵みを必要としています。彼らは自分たちと神との隔たりをはっきりと認識していたのでしょう。7の70倍赦し続けることのできるイエスに対して、隣人の一人さえもゆるすことのできない自分たち、人々の労苦、重荷をすっかり背負われたイエス、それに対して、天では誰が一番偉いのかと野心に燃えてしまう自分たち。神からは限りなく遠い存在であること知り、恵みの必要性を痛感したのです。

今のわたしたちも同じです。神のみ旨を生きていくには、神の手を差し伸べていただきたいのです。そして叫ぶのです。「信仰を増してください」

 

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