
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
復活節第4主日(C年)の説教=ヨハネ10・27~30
2025年5月11日
わたしたちにとって「仲間」というとき、どのような人を指すのでしょうか、想定すればいいでしょうか。思えば、身近な言い回しに「同じ釜の飯を食う」という言葉があります。その意味するところは、「寝食をともにしたり、同じ職場で働いたりした間柄のこと」(「大きい活字の故事・ことわざ辞典」)とあります。そしてその使い方は「同窓会があり、野球部で同じ釜の飯を食った仲間たちと久しぶりに再会した。」というふうに表現します。
毎年のこととはいえ、新聞のページを割いて、今年も閉校する学校が次から次と掲載されます。それも、明治の時代に建てられ、開校した歴史ある学校が多いです。そのころには、人口の減少なんて予想もしていないでしょうから、今から見ると、こんな地域・地区にと思われるような場所に建てられた学校になってしまったのではないでしょうか。
今でこそいろいろな技術を駆使して予測を立てることは可能になりました。かなり充実した計画案も、しかも実現可能な案を作成することもできる時代になってきました。今は、それだけに、新たな危機感を抱かざるを得ない時代にもなってきたと言えます。このことは、わたしだけが感じている危機感かもしれませんが・・・、でも、実に由々しき事態ではないかと思っています。
わたしたちが生きる便利さを追求するあまり、物事を合理的に処理することに走り、その結果、人との接触、関わりを避けてしまっているのではないかという心配が頭をもたげてきます。
その中にあって、閉校する学校の同窓生のニュースは安堵感を感じさせます。中でもひときわ大きく紹介されている記事がありました。(南日本新聞2025年5月1日朝刊)
2006年に閉校した笠沙高校の同窓会が記念碑を建立し、南さつま市大浦町の同校跡で除幕式を開いています。なんといっても、閉校後19年が経過しており、さらには、高齢の同窓生が多くなり「今しかない」と声が上がりました。同窓会は母校が58年の歴史を閉じた後も活動を継続していました。昨秋、支所改修に伴う備品整理について話し合うため、役員が集まったその中で、この度の記念碑建立のアイディアが出たということです。同窓会の宮内和郎会長(79歳)は「戦後の貧しかった頃『近くにあったから高校に通えた』という卒業生もいた。母校があった証しができてよかった」と話しています。
いつの時代も、人同士の交わりは一人ひとりをよりよい人間へと成長させます。さらに、その交わりを通して相手の方をより深く、より広く知るようになってきます。そして、そこに情がわきあがってきます。愛(する心)情であり、敬う心であり、信じる心の豊かさです。
きょうの福音・よい牧者についての話は、イエスと弟子たちとの交わりをうまく言い表しているのではないでしょうか。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10章11節~16節)
さらにイエスはダメを押します。きょうの福音です。「「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」と。

イエスとの交わりに招かれた弟子たち、紆余曲折を経て、イエスの証人としての役割に招かれました。あの弱かった弟子たちが民衆の前でイエスをメシアであると証ししたのです。イエスとの交わりによって高められ、深められ、強められたのです。イエスの信奉者として、証人として、福音宣教者として成長を遂げたのです。
それは、羊飼いと羊との関係の中身の濃さに影響されます。羊飼いの思いが羊に伝わるのは、「わたしは羊を知っている」からです。羊の名だけではなく、一頭一頭の個性までも知り抜いているのです。何を求め、どのように導けばその一頭にとって最良の結果を生み出すかを心得ています。だから羊は羊飼いの後を従い、「わたし」が羊たちを導いて「永遠の命を与えます」。
人間の絆は、その証しとして何か「モノ」・記念碑を残します。
信仰者の絆は、羊と羊飼いの間にあるような絆なのです。それは父と子によって支えられる絆です。それだけに価値のある尊い存在なのです。つまり、羊であるわたしたちは父と子にとって、かけがえのない存在なのです。父と子を「仲間」というには、あまりにも礼を失するかな、・・・。
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