『年間第28主日』の聖書と説教はこちら

年間第27主日:わたしたち互いの交わりは、永遠を見つめ、前に進んでいる

この記事は約5分で読めます。
年間第27主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第27主日(B年)の聖書=マルコ10・2~16

2024年10月6日

以前と比べて、今は、はるかに、日々の生活は便利になり、快適になってきました。情報等にしましても、部屋にいながらにしてたくさんのメディアからの情報が入手できます。また、便利にいろいろな機能を駆使して、視野を(?)広げられる様々な有力情報、資料を会得することもできるようになってきました。

こうした現象の陰で起こっているのではないかと、気になることがあります。それは「ダメ人間」が新たに生まれてきているのではないか、・・・と。何を称して「ダメ」というのかが問題になりますよね。この場合、あくまでもわたし個人の価値観による感覚なので、偏りがあるかもしれません。生きてきたその時代背景の中で培われた感覚がそう感じさせてしまうのでしょう。個人的なことを言ってもしょうがないですね。

ところで、同じ「便利さ」と言っても、なるほどと感じさせられたものがありました。(南日本新聞2024年9月30日朝刊)

「『健康な人なら歩ける距離でしょうけど、持病がある身には難しい』。鹿児島市常磐2丁目の80代女性はため息をつく。最寄りのバス停が遠くなったからだ」との書き出しで始まっているコラム記事があります。この記事の主たるタイトルは「遠のく停留所」とあり、「便利さ自慢過去の話に」の説明文が付記されています。この十数年の時代の移り変わりが綴られています。

「数十年前に自宅を構える際、バス停の近さや便数は決め手の一つになった。『便利なところでいいね、友人にうらやましがられた。近頃は便も減り、昔とは変わった』。現在は今春から使えるようになった乗り合いタクシーで行く。」

鹿児島市でさえ、このような施策に変更していかないと、ますます市民の生活に、さらに不便を強いてしまう結果を招き兼ねません。とはいっても、実に寂しいことですね。これらの今の現象は、人口の減少による地方・地域の過疎化、少子高齢化による公共交通機関の利用者減少、また、便利な自家用車へのサービス過剰等が、それら「バス路線の減少」を加速させてしまったのでしょうね。

今後、鹿児島市は24年度、官民による公共交通ビジョン協議会を設置し交通網の再構築を図るとか。将来の交通体系でも中心となるのはバスと考えられています。その重要性は変わらないものと思われます。JRや市電、コミュニティーバス「あいばす」、タクシーを組み合わせ、存続できる交通体系を目指していくということです。

その時、その時代の社会状態がどうであれ、一生懸命生きようとしていること自体に、変わりはないでしょう。もちろん、人一人ひとりのことです。後の時代になって初めて、あの時代を懐かしむことができます。そして、その時が今の時代よりも不便だったな、と思わせる時代であっても、当時はそのようなことなど、みじんも思って生活はしていませんよね。それなりに良い時代だったんですよ。

年間第27主日:神が結び合わせてくれたものを、人は離してはならない
年間第27主日(B年)の聖書=マルコ10・2~16 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

人間社会の営みには、それぞれにいろいろなものがあります。趣味、仕事、学業などです。これらの営みは、近い将来を見越し、計画した営みではあっても、「永遠」を見越し、自覚したものではないのではないでしょうか。いかがですか?

でも、結婚はどうでしょうか。今日の福音のメッセージの中には、「永遠を目指し、意識された厳粛なもの」であるというメッセージがあります。それは、イエスがファリサイ派の質問に答えられたその言葉の中に示されています。「神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。」(創世記1章27節)「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2章24節)そして付け加えられます。「だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と。

ふたりが結婚の誓いを交わすときに、ある限られた年月を想定したものではないでしょう。お互いがその命を神に返すその時まで、つまり、永遠を見越した約束です。したがって、イエス流のわたしたち人間に対する最高の愛です。だからこそ、「わたし」も相手を愛することができるし、大切にできるんですそれゆえに、結婚そのものはいかにも厳粛な神の前における荘厳な二人の誓いなのです。

とはいっても、本質的にわたしたち一人ひとりは弱く、醜く、足りないところが多々ある存在でもあります。その「わたし」が永遠の誓いをするわけですから、一人でその誓いの中身を全うすることは極めて困難です。だからこそ、伴侶がいるのです。二人でだったら曲がりなりにも(?)全うできる力と恵みのもと、絶えず前に進むことができます。それがまた、結婚です。結婚は永遠を見つめ、前進して行くからです。誓いの約束をする男女の交わりは、二人に託されたそれぞれの召命を、さらに大きく、強く育てるものでもあるということです。

人間の営みはすべて、永遠に向かっています。イエス・キリストは、そのためにご自分を十字架上にささげられたのです。罪に汚れ、自分勝手に好きなように生き、神に背を向けていくような、この「わたし」のためにです。

イエス流のわたしたち人間に対する最高の愛です。だからこそ、「わたし」も相手を愛することができるし、大切にできるんです、本当は・・・。人との交わりをもっと大切にできるように、・・。

社会のひずみ、寂しさも、互いの交わりを深め高めてこそ、正常化されていくのではないでしょうか。一人ひとりが、そのことを心がけることで、大きなうねりとなって広がりを見せてくれます。多少の不便さなど、むしろ温かい交わりの憩いの時に変身、・・。

 

年間第27主日【10月6日】の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました