十字架称賛(A年)の説教=ヨハネ3.13~17
2014年9月14日
1964年(昭和39年)、アジアで初めてのオリンピックが、東京を舞台に開催されました。みなが喜びに沸いた年だったのでしょう。カラーテレビも初めて登場し、近所のカラーテレビをお持ちの家によく行ったものでした。
電気屋さんの前は人、ひと、ヒトでした。あのオリンピックの開会式の中で、クライマックスといえば「聖火」の入場でしょう。その最終ランナーを受け持った坂井義則さんが、亡くなられました。戦後復興の証しとなったオリンピックで、広島生まれの坂井さんが選ばれたのは、これまた、平和の象徴でした。彼の走る姿がきれいだったなという印象があります。
時の流れと共に過ぎてしまいますと、記憶に残っていることをたどれば、その行事を印象付ける出来事と共に思い出されます。人の記憶のあり方は、時代を超えて同じなのではないでしょうか。ある行事に意味を加え、それによって新たな解釈が生まれてきます。かつての東京オリンピックをご存知の方は、どのように受け止めておられるでしょうか。
きょうの主日は「十字架称賛」の日曜日です。古代のギリシャ人やユダヤ人は、十字架を凶悪犯の処刑道具に用い、これを愚の骨頂、恥辱のしるしとみなしていました。その十字架の処刑を受けたイエスさまは、人類の罪をあがなうために死去されました。それによって、十字架の価値が高められたのでした。
つまり、十字架は、死と地獄に打ち勝たれた主キリストの旗じるしとなり、人びとに永遠の幸福と罪のゆるしをもたらすものとなったのです。全く新しい意味が加えられ、今ではキリスト教の称賛すべきシンボルとなっています。
パウロはいいます。「十字架の教えは、滅びてしまう者にとっては馬鹿らしいことですが、救いの道を歩いているわたしたちにとっては神の力です」(Ⅰコリント1章18節)と。ダマスコの聖ヨハネもいいます。「十字架を礼拝するのは、十字架はキリストを示すからです。わたしたちは十字架の木材を礼拝するのではなく、十字架を通じて示されるキリストを礼拝するのであります」。
人類史上には、その時代に生きる人、その時代を左右する存在の人たちによって、その時代の特色が残されます。半世紀前のオリンピックと2020年に開催される「再び東京オリンピック」では、何が発展し、変化し、どんな内容の物語が生まれるのでしょうか。
そして、それが語り継がれていきます。新たな価値、評価が残されていきます。ある人にとっては、その生き方に影響するほどのインパクトがあり得ます。
イエスさまの十字架もそれ以上のインパクトがあり、受け継がれ、語り継がれ、実践されているのです。いつまでも人類にとって、十字架が「神の力」でありますように。
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