年間第23主日(A年)の説教=マタイ18.15~20
2014年9月7日
「異常気象」を意識し始めて久しくなります。今年の夏は、それに輪をかけたように日本列島が襲われました。被災現場では、途方に暮れる人々があとを絶ちません。先日は、東京から来られたある方が「今年の夏、東京では、真夏日が10日あったかどうか」ということをおっしゃっていました。地区によっては、梅雨の連続のような「夏」だったのではないか、と感じます。
こうした事態に陥りますと、人からの助け、支え、応援がありがたく感じられるものです。過去において被災経験のあるみなさんにとりましては、助けていただいた「有難み」が力となり、逆に支援する側にまわっていらっしゃった姿を拝見しました。
順風満帆時には、隣にいる人に気付かなくても、苦境に立たされると黙っていても隣の人を感じることができます。そして励まされ、元気をいただくのです。その時には、言葉に出さなくても、その仕草、振る舞いから「叫び声」を出しているのです。その「叫び声」に振りむいて援助の手を差し出してくれる人たちばかりが、その周囲に待機してくれています。人が「存在する」ということはそういうことではないでしょうか。他者のためにわたしたちは「ある」のです。
今日の福音は、罪を犯さないようにしようとしても、つい犯してしまう人間の救いの道のりを語っています。つまり、救われるためには、罪は罪、過ちは過ちとして本人が自覚していることが大事になってきます。他方、罪を罪として認めないとすれば、最終的には教会にいいなさい、とあります。そして、罪を罪として認めない教会は、イエスさまの福音に沿わない歩みをすることになります。
罪はその人自身の命を傷つけ、人のいい歩みをも妨げてしまいます。逆に、他者のために自分の命を賭ける時、充実感があり、他者を生かし、自分をも生かしていきます。助けを求めている人が近くにいるなら、臆することなく振り向いて共鳴し、その人に何らプラスの変化が起きなかったとしても、勇気を失わずに希望を強くして祈り、手を差し伸べることをやめないことです、と今日のイエスさまは叫んでいます。
さらに、2~3人が集まって、世界平和のために祈ること、被災者のために神に願うことを続ける限り、そこにこそ、イエスさまの心があり、わたしたち教会の心があります。この態度の背景には、神のわたしたちへの絶対的な愛の姿があります。それが見えますか、・・・?
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