復活節第3主日(A年)の説教=ルカ24・13~35
2020年4月26日
年が若くて元気な時は考えたこともなかったことが、年を重ねてくると、ある事にふと気づいて、思い巡らすことが多くなってきました。
脂っこい食べ物には手を出さなくなったなとか、食べる量が少なくなってきたなとか、・・。こうしたことは、年齢を重ねると、ほとんどの方が感じることではあるのでしょうが、本人にしてみますと新鮮なのです。
中国料理と中華料理、卵と玉子の違いは?
また、全く今まで違和感なく過ごしてきたことですが、店の看板に「中国料理」と「中華料理」があります。また、「卵」と「玉子」という言い方もあります。深く考えても、人生がよくなるわけでもありませんが、言われてみますと、両方とも、それぞれにどんなに違うのかなと思ってしまいます。言葉としてある限り、使い方、意味合いにも違いがあるということではないんでしょうか。
「中国料理」は、どちらかと言えば、かしこまった高級料理に聞こえます。一方で、「中華料理」は庶民的な響きを感じます。なんでも、「中華料理」は日本独特な味付けをした中国の料理のことを言うらしいのです。いわゆる、日本人の舌に合うように改良された「日本の中国料理」ということができるでしょうか。
他方「中国料理」は中国の本場の味に近い料理のことだといえます。店の雰囲気もなんとなく高級感が漂っていますよね。また、値段も高い感じがします。
また、「卵」と「玉子」は、皆さまもよくご存じのことと思いますが、前者は殻に入ったままのもので、後者は調理した後の卵のことではないかとされています。現に、探検家のコロンブスが底をへこませて無理やり立たせたという逸話に出てくるたまごを文字にするときは「コロンブスの卵」であって、「コロンブスの玉子」とはあまり書かないのではないでしょうか。卵を溶いて白いご飯にかけただけの「卵かけご飯」も、「玉子かけご飯」とは書かないようです。
話題にはなっても、生き方には影響しない
とはいうものの、上記の二つの事例に関して、人によってはたくさんのとらえ方があるようです。これといって絶対的な説はないのかもしれません。
このような類の内容だと、どちらの説が正解だったとしても、不正解だったとしても、当たり前のことながら、人の心身に、生き方に甚大な影響力はないでしょう。いくら日常生活の中で一人ひとりに身近な素材、出来事だったとしても、・・。でも、生活に潤いをもたらしてくれる話題としての存在感はあるといえるでしょう。
人の生き方に影響を与えるモノ&コトとは
しかし、わたしたちの生の営みの中で、これだけは失いたくないほどに、自分の生き方に影響力のあるもの、ことがあるのではないでしょうか。
今日の福音書には「暗い顔をして立ち止まった」二人の弟子たちの話が出てきます。エルサレムからエマオという村に向かう弟子たちです。「暗い顔」これが二人の弟子たちのその時の心境を物語っています。イエスを失った彼らは、失望の中に落ち込み、どうしようも先の見えないどん底に追いやられていたのです。
彼らは、イエスに出会い、その話にひかれ、数々の奇跡を見聞し、この方こそ力ある「メシア」であると確信し、自分たちの人生をかけてきたのでしょう。まさしく、イエスは、彼らにとっては希望であり、なぐさめであり、喜びであったはずです。それが、あっけなくも、死刑という形でこの世から抹殺されてしまったのです。彼らの期待は完全に裏切られてしまいました。
イエスが弟子たちに示した新しい判断基準
イエスに対する弟子たちの期待が大きかっただけに、イエスを失った悲しみもそれだけ深いものになっていたのです。そして、彼らにしてみますと、人生そのものに大きな挫折感を抱いていたのではないでしょうか。いわゆる、敗北感を背負って生きる羽目におちいってしまっている自分を認めざるを得なかったと言えます。
こうした弟子たちをイエスは「ものわかりの悪い者、・・心の鈍い者たち」と言って、イエス流の「嘆き節」を放ちます。人間的な観点だけに立った彼らの心情への嘆き節です。同時に、そうしたふさがれた心をひらかせようとしてのはたらきかけでもありました。一般的に、人間常識、人間の尺度で考えると、暗闇としか言えない状況(イエスの死による絶望咸)の中で、希望の光(価値ある生き方)を見つけ出すことは至難の業です。
あれだけイエスとともに生活しながら、そして、イエスの説教を聞き、奇跡の業を見て、癒された人たちの姿を体験しながらも、人間的な判断尺度しか持つことができていなかったのです。死が死ではない現実があることを知るわけがないのです。死が命であることを知ることができたのはイエスの「復活」を通してです。そして、新たな判断基準をお示しになりました。
人間の尺度で考えると「光」は見えない!
この時から、弟子たちはどんな暗闇に追いやられても、悲しみ、苦しみの中にとどまり続けるのではなく、希望のうちに前に進んでいくことができるようになったのでした。そして、それぞれに「イエスの証人」としての一生を終えたのです。
主の復活が、キリスト者の信仰の中心であるといわれるのは、キリスト者の尽きることのない躍動の要になっているからです。苦しみと死を悲しみのままで終わらせるのではなく、それらを体験したイエスが、元気に生きる道を自ら与えてくださったのです。
これは、すべての人の人生に隠されている恵みです。
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